石水槽・劉仁願記功碑
石水槽

石水槽は扶蘇山麓の扶余東軒の前の旧井戸址にあったものである。王宮跡と考えられる場所(官北里遺跡)で、王宮で使われた石蓮池と推定されている。王宮では、これに蓮を植えておいたという伝説がある。直線的な新羅の彫刻に比べて、円形に柔らかく作るのが百済の特徴である。水槽の横には等間隔に8列の線が刻まれていて、定林寺五層石塔と同じく、「大唐平百済国碑銘」と彫られていた痕跡がある。文章は刻もうとして途中で断念したようだ。

博物館にはこの他に百済の磚など多くの百済に関係する遺物が展示されている。

劉仁願記功碑は功績を記念して663年に立てられたものである。典型的な唐の形式で、碑上部の6匹の竜が写実的である。劉仁願は百済を滅ぼすとともに、百済復興運動(白村江の戦)を鎮圧した唐の将軍で、碑文にはその家門と生涯を刻んでいる。石質(花崗片磨岩)のため、円形に石の表面が抜け落ちてしまっていて、碑文は読み取りにくい。

劉仁願は唐の太宗によって抜擢され、654年の高句麗攻撃のときに大きな功績をあげ、660年に蘇定方とともに百済を滅亡させた。その後、663年に百済復興運動を平定した。この年、熊津都督として公州に戻った義慈王の息子、扶余(부여융:プヨユン)と新羅の文武王(문무왕:ムンムワン)、そして劉仁願の間で唐と新羅の境界を決める儀式が行われた。

碑文は百済滅亡の時に、義慈王(의자왕:ウィジャワン)と太子驍フほかに700名あまりが唐に連れて行かれたことと、復興運動の様子や完全に廃墟となった都の様子が書かれている。碑は3つにばらばらになって倒れていたが、日本時代に復元し、戦後博物館に移された。慶州の武烈(무열왕:ムヨルワン)王陵の亀趺と比較されるほど優れている。

劉仁願記功碑 記功碑の表面

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