定林寺(정림사:チョンニムサ)
定林寺全景

定林寺(정림사:チョンニムサ)は扶余(부여:プヨ)の町の中心地にある。ここに都があったときの中心的な寺院であった。寺は6世紀中頃に創建された。百済の滅亡とともに廃滅したようだが、のちに再建された。定林寺という名前は高麗時代に重建されたときの瓦(1028年)に刻まれていたもので、百済時代の名前は分からない。発掘で百済時代と高麗時代の遺物が集中的に発見された。百済時代のものとしては、三尊仏立像や塑像仏が発見されている。これらは定林寺址博物館で見ることが出来る。

寺は塔と本堂が一直線になる百済時代の寺の形式で、日本で言う「四天王寺」形式に近い。ただし、回廊は長方形でなく、北側ほど間隔が広がる台形をしている。四天王寺式は回廊で塔、金堂を囲むが、百済式は回廊の講堂側に附属建物(僧坊など)がつく形である。定林寺も従来は「四天王寺式」と考えられたが、近年の発掘で附属建物の跡が発見された。

門を入ると、左右に方形の池がある(現在のものは発掘された池の上に作られている)。ここから仏の国に入る。ただし百済時代のものではないようだ。池中央の通路と塔、金堂の向きが合わないからである。発掘では統一新羅時代のものと見られている。

五層石塔は百済に残る2つの石塔のうちの1つである。石塔は7世紀に入る頃から作られ始めた。ちなみに石仏もその頃からである。益山(익산:イクサン)の弥勒寺(미륵사:ミルクサ)の塔よりは洗練されているが、木塔の影響が強く残っていて、屋根が薄く、軽くそっている。塔の各層の四隅には柱が立てられているが、上下が狭く、中央部がふっくらとする木造建築のエンタシス技法が取り入れられている。基壇は小さな単層基壇であるところも百済の石塔の特徴である。塔の基礎の下には石が埋められていて、沈下しないように工夫されている。

塔 の系譜は弥勒寺に継ぐものであるが、寺の創建はこちらの方が早い。そのため、木塔が先にあって、それを石塔に建て替えたのではないかと見られている。周囲から木塔の部材と見られる物が埋められているのが発見されている。基檀が地面に潜っていることも問題とされる。本来、塔基檀は周りより高く作られるべきものだからである。

塔の一層目には「大唐平百済国碑銘」と彫りつけられた碑文がある。百済の滅亡を記念して唐側が彫ったもので、この文章があるために、「平済塔」とも呼ばれた。

なお、日本の滋賀県東近江市の石塔寺にはこの塔とよく似た石塔が建っている。亡命百済人が多く生活していたところだ。

本堂には石仏が一体ある。火をかぶっているために、仏身の細かい表情はわからないが、台座に彫られた蓮花紋はすばらしい。石仏がある場所は百済時代の本堂の址であるが、発掘の結果、高麗時代に本堂を重修したときに作られたと考えられる。なお、仏頭と冠は石臼を後になって載せたものである。

入り口の池(中心軸がずれている) 五層石塔 「大唐平百済国碑銘」の文字 石仏

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