石塔寺(滋賀県東近江市)
百済系とされる三層石塔

滋賀県の蒲生は百済滅亡後に渡来した渡来人を配したところである。山門に「阿育王山」という額がかかり、阿育王(アショカ王=〔前3世紀〕インドでシャカが入寂した後、仏教で国を治めた王)が仏法の興隆を願って撒布した塔が埋もれていたという伝説がある。

山門から登っていくと山頂が狭い平地となっていて、そこに三層石塔が建つ。日本最高の三層石塔で、伝説の塔である。相輪はあとから補われたもののようだが、石塔本体は百済が亡びる直前に建てられた定林寺の三層石塔によく似た百済形式で作られている。屋根が薄い板で隅が少し厚くなること。屋根裏の持ち送りがはっきりしないところなどである。奈良時代前半の作品とされる。

新羅形式の塔は時折目にするが、百済形式は日本に類例がない。石塔文化は百済末期の7世紀に始まるが、本格的な開花は統一新羅時代になってからであること、新羅の統治期間が長かったことも関係するのだろう。その新羅式石塔も、地震の多い日本ではより崩れにくい独特の形状の変わっていった。

蒲生一帯は百済系の人々が多く住んだ場所である。5世紀後半以来、百済系の渡来人が多く住んでいた地域である。だが、それだけではない。日本書紀には天智天皇8年の669年に鬼室集斯はじめ百済からの渡来人700名をここに住まわせたという記録がある。そのためこの近くには鬼室神社はじめ、オンドルの遺構など渡来人の生活を思わせる遺跡がある。おそらくその百済からの渡来人が郷愁の念からこの百済式の石塔を建てたのであろうと考えられている。

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