軍守里(군수리:グンスリ)廃寺
全景(宮南池より)

軍守里廃寺は定林寺、扶蘇山西腹寺跡、佳塔里廃寺と並ぶ、泗比(=扶余)城内の寺である。軍守里の近くにあるために、このような名前で呼ばれるが、百済時代の寺名はわからない。宮南池(궁남지:クンナムジ)の西、約150mのところにあるため、宮南池と密接に関係があると考えられている。

日本 時代、周辺の村で建物の礎石が甕の置き石などに使われていたり、百済時代の瓦が散乱していたため、1935,36年の2回にわたって発掘した。それにより、中門、塔、金堂、講堂が一直線にならぶ四天王寺式配置を取る寺跡であることがわかった。このとき、塔の後ろだけでなく、左右にも建物らしい跡が発見されていたため、高句麗式の一塔三金堂作りで建てられた寺ではないかという指摘もあった。それらを確認することもあって、2005年と2007年に再発掘された。

残念ながら東側は削平が進み、建物跡は確認出来なかった。また、西側は民家の下で、今のところ発掘できていない。その一方で新たに分かったことも多い。土地は、丘陵を平らに整地して、建物の部分は新たに盛り土をして、基壇を作ったことが分かった。基壇の外郭を装飾するために、瓦(金堂)、磚(木塔)が使われているが、瓦基壇は、滋賀県大津の崇福寺弥勒堂の基壇によく似た、瓦をななめに積み上げて交差させたものと、立てかけているものと一つの建物で2つの方式が使われているところに特徴がある。なお、瓦は扶余の窯(亭岩里(정암리:チョンアムニ)瓦窯址)で焼かれた。

1930年代の発掘の時、木塔の心礎石上面から金堂弥勒菩薩立像と、蝋石製の如来座像が発見された。蝋石という、普通使われる石造でない珍しいものである。7世紀初めに作られた。石仏は百済新羅とも7世紀頃から作られ始めた。新羅による三国統一以前に作られた仏像の多くが立像なのに、座像であることも珍しい。また、ここからは七支刀が発見されている。奈良県石上神宮と類似しているが、日本と百済の文化交流の関係を伝えている。

発掘中(2005年) 木塔跡(中央)と宮南池(右) 金堂跡

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