宮南池
(궁남지:クンナムジ)
宮南池

宮南池は扶余の町の南端にある池である。王宮の南にある池という意味で、当時どのように呼ばれていたかは分からない。池の真北には扶蘇山が見える。

「三国史記」では、武王の634年に宮殿の南に池を掘り、20里(8キロ)離れたところから水を引き、池のまわりに枝垂柳を植え、池の中に島を作り「方丈仙山」を模倣したと書かれている。韓国最初の人工造苑とされる。池は船遊びが出来るほどの大きさであった。このような池は王宮のすぐ南に作られるはずで、現在の宮南池は場所が離れすぎている。

池の造園技術は、後の新羅の離宮、雁鴨池(안압지:アナプチ)の造形の元になったと言われる。宮南池は長い年月に埋まってしまい、しかも周囲が水田として開墾してしたときに池の中まで水田化されてしまった。現在の池は1960年に整備復元されたものであるが、その後の発掘によって池と確認された部分は、蓮池として残されている。かなり広範囲に蓮池が作られていて、元の池の広さが想定できる。池の西側と軍守里廃寺の間や、北東側、南東側で百済時代の護岸が一部発見されているものの、全体像は未だ確認されていない。なお、軍守里廃寺と宮南池は、何らかの関係があると考えられている。

池の中央には石築が残っているだけである。また、池の東側から建物跡が発見されていて、離宮があったと考えられている。現在、周囲には離宮の跡と思われる井戸と建物の礎石が残っている(実際に離宮かであったかについては考古学的に確定していない)。この池は「三国史記」で書かれているものではなく、この離宮と関係する池ではないかとも考えられている。

さらに、近年の発掘調査によって、6世紀初めから6世紀末までの遺物が主に発見されている。池の北側からは道路と水路の跡が、南からは井戸の跡、池の内部からは木造貯水槽が発見された。周囲からは百済時代の土器や瓦が発見され、百済時代の草履、木簡、鍬、斧、ハンマー、男根などの生活関連の木材や金糸、ガラス製の玉など様々な遺物も多く発見されている。

宮南池から扶蘇山を見る 蓮池 蓮池の配置図

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