太宗武烈(무열:ムヨル)王陵

武烈王(무열왕:ムヨルワン:602〜661)は金庾信(김유신:キムユシン)と協力して新羅の三国統一を進めた王である。名前 は金春秋(김춘주:キムチュンジュ)で、百済に対抗するため に、高句麗や 日本に援助を依頼しに来たこともあった。実際に三国を統一したのは、その次の文武王(문무왕:ムンムワ ン)のときであるが、その多くは武烈王の力による。そ んなこともあってか、武烈王の前に「太宗」という号がついている。新羅の王で号がついているのは武烈王だけだ。唐朝はこれを用いることを黙認したという。

古墳は直径百メートルで、新羅の初期の積石木郭墓である。裾が崩れることを防ぐ護石がところどこ ろに露出している。武烈王の頃から古墳の作り方も 変わってきて、山の上に横穴式石室で作られるようになった。その意味から初期の作り方をした古墳の最後の時期のものである。

古墳の前には武烈王陵碑の亀趺と碑の上に置く「螭首(ちしゅ)」がある。螭首は百済を滅ぼした劉仁願記功 碑と ならんで美術的に素晴らしいものとされる。

亀趺は四天王寺(사천왕사: サーチョナンサ)や昌林寺(창림사: チャンニムサ)のものとならんですばらしいものといわれていて、顔もいい気しているし、後ろ足も今にも前に進もうと砂をけろうとしている様子がよく現れて いる。ここに「太宗武烈王陵碑」と書かれているために、古墳に埋葬されている人が確定できるのである。なお、この古墳は西岳洞古墳群(서 악동:ソアクトン)の一角にあたり、他にも多くの古墳がある。

ここに亀趺がある 生き生きとした亀 太宗武烈王陵碑の文字がうっすらと見える
 
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