島と潮流に負けた秀吉軍

1592年、豊臣秀吉は朝鮮に軍を進めた。釜山に上陸し、北進した。それぞれの拠点には倭城と呼ばれる城を造り、拠点としていった。これにたいして、朝鮮側も反撃を行った。その1つが 1592年 7月の閑山島大捷である。

朝鮮の海軍の将軍李舜臣は、5月以 降日本船を撃破していた。それに対抗するために脇坂安治らを朝鮮に派遣した。その情報を得た李舜臣が統営沖の閑山島の沖で日本軍71隻を撃破した。麗水 から出発した李舜臣は、最初日本軍のいたところが、狭い海峡で暗礁も多いため、朝鮮側に有利な閑山島沖に日本軍を誘導することとした。

周囲は巨済島と本土に挟まれていて逃げ場がないこと、窮地に追われて島に上陸しても。食糧がないことなどが根拠だった。

結局、閑山島沖におびき出された日本軍は、そこで 朝鮮船に囲まれ 大敗してしまった(鶴翼戦という)。この戦いで日本水軍側はほぼ全滅状態になり、朝鮮南岸の制海権を取り戻し、朝鮮側の志気を盛り上げるの に大きな役割をおった。結局地形をうまく利用した戦いであった。

この戦争は、もう一つ大きな海戦があった。秀吉 軍は1592年侵攻後、一旦軍を日本に引き揚げた。しかし1597年に再び軍隊を送った。日 本で は慶長の役、韓国では丁酉再乱という。この戦いは主に朝鮮 半島南部で行われたが、1597年9月に全羅南道に来た藤堂高虎たちの日本軍133隻に対して、李舜臣が12隻の船で立ち向かった。鳴梁海峡で行われたの で、鳴梁大捷という。

鳴梁海峡は珍島との間の幅300メートル足らずの海峡で、暗礁も多い。日本軍は最初潮の流れに乗って朝鮮軍を撃破しようとしたが、途中で潮の流 れが変わり身動きがとれず敗退してしまった。これがきっかけとなって、朝鮮軍は朝鮮南岸の制海権をおさえた。

この辺は普段でも潮流の変化が激しく、航海の難 所として知られている。潮流の早さは普通で11ノット、大潮の時は13ノットにもなる(時速1ノットは約1.8q)。潮流が早く、なるとの渦巻きで知られ る明石海峡が最大で10ノット(通常の大潮で8ノット)、関門海峡で6から7ノットである。関門海峡などでは潮の向きによって海峡を進むことのできる船の 向きを規制しているくらいである。なお、日本軍は7世紀の白村江 の戦いの時も潮流の早いところで負けている。

閑山島から統営方面を見る 戦いの説明図(赤が日本軍、青が朝鮮軍) 本営のあった麗水

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