朝鮮(朝鮮王朝)
【王朝成立】
高麗末期、新しい社会を思考する勢力が成長した。彼らは「元」に代わり新興の「明国」(1368)と結ぶ事を考えた。倭寇対策などで力をつけた李成桂は親元派を倒して政権を奪取して(1388)、家臣の推戴によって王位についた(太祖 1392)。高麗恭譲王から王位を受け継いだ形である。

都を漢城(ソウル)に移し(1394)、国号も変更した(1392-1910)。「朝鮮」と「和寧」の2案のうち、「朝鮮」の国号を明国から認められた。「朝鮮王朝」は韓国での呼び方で、単に「朝鮮」と言うとこの王朝を指す。東アジアの政権の中で最も長く続いた政権でもある。なお、1392年は足利義満が分裂していた南北朝を合一した年である。

【朝鮮王朝の政策】
李成桂は漢城に都した後、真っ先に宗廟社稷壇を作り、続いて正宮である景福宮を建設した。朝鮮朝は儒教、ことに朱子学を重んじだため、仏教が衰退したり、商業など実学が軽視された。

外交は「明国」に「事大の礼」をとり、朝貢関係を維持するとともに、日本、女真とは「交隣」(友好関係)をとり、日本人を厚遇したり、帰化を認めたりもした。倭寇対策のためである。同時に倭寇対策を室町幕府などに求めたが、戦国時代のためにうまくいかなかった。そのため倭寇の本拠地の対馬を攻撃した(応永の外寇 1419)。

朝鮮は交易の財政的負担を抑えるために、朝鮮は交易港を富山浦(釜山)、乃而浦(熊川)、塩浦(蔚山)に絞り(1426)、倭館を置くとともに、漢城には東平館が置かれた。また、朝鮮に来る者については対馬の宗氏の発行する文引を携帯させ、さらに来貢する船の数を対馬との間で制限する条約を結ぶなど(癸亥約条(1443)、宗氏に特権的地位を与えようとした。

【朝鮮初期の政権】
太祖(位1392-98)就任後すぐに王子の争いがおこり、2代定宗(位1398-1400)は太宗(位1400-18)に政権を奪われる。正宮の景福宮に対して、離宮の昌徳宮が作られたが、次第に正宮化する。太宗によって朝鮮の王権は確立し、それを受けて世宗(位1418-1450)の時代、国力は大きく伸びた。ハングル(訓民正音)の制定、学問的業績と並び、領土を北に拡張して、高句麗以来はじめて鴨緑江、豆満江以南を朝鮮の領域とした

その後9代の成宗(位1457-94)の頃から士林という儒者勢力が力を持ち始め中央と対立した。士林は、暴君として知られる燕山君(位1494-1506)、次の中宗(位1506-44)のころまでたびたび弾圧された。なお、昌慶宮は成宗が祖母のために建てた宮であった。

【豊臣秀吉の朝鮮侵攻】
朝鮮は社会不安の中で軍事力が弱まった。開港地では日本人の反乱が起こり(三浦の乱 1510)、一時対馬との交易は断絶した。2年後交易は再開したが厳しく制限された。交易港も16世紀半ばには釜山だけとなった。

14代宣祖(位1567-1608)のとき、豊臣秀吉が朝鮮を侵攻した(壬申倭乱 1592)。日本は戦国時代が終わりを迎える時期であった。日本軍は当初破竹の勢いで朝鮮半島北部まで軍を進めたが、李如松の率いる明国の参戦や、義兵活動、また李舜臣による閑山島海戦での制海権確保などにより日本側に不利となった。そのため第1次講和を明国との間で行うとしたが、不調に終わり、秀吉は再び軍を朝鮮に送った(丁酉再乱 1597)。この間日本側は朝鮮南部に倭城(和城)と呼ばれる日本式城を築いていた。日本は主に全羅道を中心に攻撃した。戦争は秀吉の死とともに終わる。

朝鮮の多くの人が日本に連れて行かれ、その中には陶工儒者や後の政治のブレインになる者もいた。漢城や仏国寺など多くのところが焼かれたため、一時避難していた宣祖は新たな王宮を臨時に作らなければならないほどであった(現在の徳寿宮)。景福宮は不吉な場所だということで、高宗の時代まで使われずに荒れ果ててしまった。この戦争に参戦した明国は国力が衰退し、清国に倒される遠因となり、日本でも東国に基盤を持つ徳川家康に政権が移る原因となった(1603)。

【日本との国交回復】
徳川幕府は朝鮮との講和を求めた。朝鮮側は探賊使を送った後(1604)、講和の条件がなったとして回答兼刷還使を2度日本に送り(1607、17)、国交を回復した(己酉条約 1609)。刷還使は徳川家光就任慶賀使節(1624)まで3回送られる。朝鮮では戦争で荒廃した国土を速やかに復興させる必要と、北の女真族に対抗して国内を安定させる必要があった。家康側は明国に冊封されている朝鮮王朝と関係を持つことで、間接的に東アジアの国際秩序に加わり、国内の基盤を安定させる必要があった。

実際に朝鮮にとって女真との関係は急務であった。女真は後金をおこし(1616)、奉天を都にして(25)、国号を清に改めるまでになった(36)。光海君(位1609-23)は中立政策をとったが、仁祖(位1623-49)は親明政策を採用したため、二度にわたり金の侵攻を受け(丁酉胡乱 1627,丙子再乱1636)、清に降る。

朝鮮から日本への使節は1636年からは通信使と呼ばれ(通常、回答兼刷還使の3回を含んで、これを第4回とする)、1811年の第9回(通常は第12回通信使)まで続く。日本側は1711年の通信使で「日本国王」号を使った以外は、「日本国大君」号を使った。一方日本人の活動は釜山の倭館だけに厳しく制限された。それも対馬藩だけである。倭館は最初豆毛浦におかれたが、草梁に移された。

【朝鮮の中興】
17世紀以降、朝鮮の政治は士林の分裂と派閥の対立により、王権の政治基盤が不安定になるようになった。社会も商品経済が拡大し、大きく変化し始めた。21代英祖(位1724-76)は争いを解決するために、王権強化をはかった。しかし、かえって争いは激しくなり、その中で思悼世子(世子=王の後継者)が父王の英祖によって殺害される悲劇も起きた。世子を偲んで、世子の息子の正祖(位1776-1800)は都を水原へ移そうとした。英祖の政策は正祖にも継がれて王権も安定した。農業や商品経済が活発化し、南大門市場の原型ができあがり、貨幣が使われるようになった。中国から西洋の学術書が流入して実学が興るとともに、カトリック(天主教)も入った。

【勢道政治と大院君】
1800年、正祖が急死すると、純祖(位1800-34)はすぐ結婚させられ、王妃の父親が後見となった。これをきっかけに王妃一族が政治の実権を持つ「勢道政治」がはじまる。これは憲宗(位1834-49)、哲宗(位1849-63)まで続くが、その間、社会不安は高まった。貧富の格差の拡大と農民層の反乱も増えた。また東アジアに本格的に欧米勢力が進出し始め、朝鮮にも接触していた。

哲宗の死後、高宗(位1863-1907)が王になる。幼少のため父の大院君が後見政治を行った。大院君は勢道政治を廃して、景福宮を再建して王権の強化を図った。外国に対しては排外政策をとり、天主教徒に迫害を加えた。フランス軍の江華島占領(1866)やアメリカのシャーマン号事件(1871)を排した大院君は鎖国政策を強化して、各地に「斥和碑」を建てた。

明 治維新後の日本に対しても、それまでの外交のあり方に反するとして、関係を結ぶことを拒んだ。しかし、高宗が成人して大院君から失脚すると(1873)、日本との関係の修復へと舵をきる。同じ年日本では西郷隆盛が征韓論によって失脚していた(1873)。日本が雲揚号を送り江華島そばの永宗島を攻撃したことで(雲揚号事件1875)、江華島条約が結ばれ(1876)、日本との関係が回復した。

日本側からすると、江華島条約は「万国公法」の下での新たな関係構築と言うことであるが、朝鮮側はそれまでの交隣関係の修復ととらえていた。そのため、1882年の朝米修好通商条約を開国ととらている。

高麗時代    目次     HOME     大韓帝国