新井白石墓
白石夫妻の墓(奥、柵の中)
 
新井白石(1657-1725)は儒学者であり、18世紀の文治政治に大きな 影響を与えた。朱子学は、文禄慶長の役(1592 か ら)のとき朝鮮から連れてこられた姜(カンハン)に教えを受けた藤原惺窩の孫弟子である木下順庵に教えを受けた。同門には対馬の雨森芳州がいる。木下の薦めにより甲州徳川綱豊(家宣)の儒臣となり、綱豊が6代将軍家宣となると幕臣とし て登用された。幕府の財政が赤字になったため、「正徳の治」によって立て直しを図った。基本は朱子学と政治を一致させようというもので、理想主義的なもの であっ た。

その中には朝鮮との国交も含まれた。莫大な金がかかるため、簡素化を図った。 さらに朝鮮に渡す国書に書かれる将軍の肩書きをを「日本国大君」から「日本国王」に改めさせた。将軍を主権者として押し出したのである。それまで天皇と将 軍とどちらが主権者かについて、朝鮮などでも議論されたことがある。

朝鮮からすれば、天皇が主権者なら、王(徳川将軍)よりも格上の皇帝格とつきあうこと となり、格が合わないのだ。日本からすると「大君」とすることで天皇との関係で「王」ではないが、日本を代表することを示すことが出来るということで、3 代将軍家光以来、この称号を用いていた。このことで独自の日本型外交を行っていた。

白石の方針は「和平・対等・簡素」の基本方針からであったが、おりしも1711(正徳元)年第8回通信使が来ている最中のことで、しかも朝鮮側とのすりあ わせな くいきなり方針が藩主から通告されたため、混乱を招いた。特に「大君」号を「国王」に変えたことは、通信使に 随っていた雨森芳州はじめ多くが反対した。芳州と白石の間の議論はよく知られている。

称号を変えることによって、国内的には天皇との関係が変わることとなるし、「大君」という東アジアの独自の地位による外交を捨てることにな り、将軍の国際社会の中での地位の変動を意味するからである。また、朝鮮との通信使の関係は厳格な手続きが決まっていることもある。結局朝鮮側(粛宗)が 国王号使用を認めた。将軍の号は次の吉宗に対する通信使から最後の通信使である第12回通信使ま で再び「大君」に戻された。結局白石の考えにもかかわらず、正徳の通信使だけ特異な状況になってしまった。

白石は1716年に引退し、その後は一学者として多くの書籍を記した。また詩 歌に長けていて、その声は朝鮮でも聞こえていたという。墓は中野区の高徳寺にある。浅草から明治41年(1908)に寺が移転したときに一緒に移された。 周囲にはその様な寺が多くあって、京都方広寺鐘銘事件や大阪の陣、島原の乱の時に活躍した板倉重昌墓、吉良上野介歌川豊国河竹黙阿弥ら江 戸時代に関 わる多くの人の墓がある。板倉重昌の墓は島原の乱で死亡した日付が、吉良上野介の墓も討ち入りの日付が刻まれていて金石文として貴重である。
 
新 井白石の墓(前面) 横面、死亡日、年齢が彫られる (参考)板倉重昌墓(宝泉寺) 
 
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