耳塚(京都)
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塚上の供養塔 |
豊臣秀吉をまつる神社、豊国神社のすぐ前にあ
る。秀吉は、文禄(1592)と慶長(1597)の2回朝鮮に出兵し
た。最初の文禄の役は朝鮮半島の北方まで攻め込んだが、次の慶長の役は全羅道、
慶尚道方面が中心だった。この地
域には今でも「倭
城」とよばれる日本式の城跡がある。慶長の役のおり、戦況を確認するため、秀吉は敵の鼻を削いで塩漬けにして送らせた。必ずしも戦死者だけでな
く、
生存者の鼻まで削いだという。その鼻を供養したところだというが、いつしか「耳塚」と呼ばれるようになった。
塚は明治にはいるまで荒れ放題だった。供
養塔は2回の大地震で崩れ落ち、その傷が残っている。この塚は豊国神社を作るときに供養するために整備された。玉垣には歌舞伎役
者や川上音二郎などの名前が彫られている。
豊国神社のある場所は明治になるまで方
広寺の敷
地であった。方広寺は豊臣家が造った寺であるが、秀頼が作った鐘が元となって豊臣家が滅びることとなった。このとき京都所司代板倉勝重らの強攻策
の上奏で
大阪の陣へとつながる。その子、板倉重昌は大
阪冬の陣で豊臣方との交渉を行った。この鐘は現存していて、日本三大名鐘の1つに数
えられている。同時に奈良の大仏より大きい大仏殿があったが、こちらは火事で焼失してしまい、現在は公園になっている。豊国神社の本殿は、この大仏殿の一
部に建てられている。