伝王仁墓(大阪府枚方市)
墓の入り口、百済門 手前の丸い石が墓 伝、墓石

王仁(わに)は4世紀末に百済から渡来し、「論語」 10巻、「千字文」1巻を日本にもたらしたと日本書紀などに記される。漢字や、儒学を伝えた人であるが、実在の人物だったのか、あるいは渡来した複数の学者を「王仁」に仮託したのかはははっきりしな い。いずれにしても「応神天皇」のころに、百済からまとまった文献などが伝えられたのであろう。

この墓がある場所には、古くから「オニ墓」と呼ばれる石があった。江戸時代、枚方の和田寺の記録から、王仁の墓が藤坂村字御墓谷にあることが分かった。ここには「オニ墓」というものがあった。そこで、1731年にこの地を調査したところ、自然石の立石を発見された。それを王仁の墓としたという。自然石の後ろに新たに墓標を立てて祀ることにしたのである。周囲を紀元2600年を記念した玉垣が囲んでいる。そkには「中央朝鮮協会」の名前も見られる。墓の入り口にある百済門は2006年に建てられたものである。なお、墓から50mほど離れたところに「博士王仁陵」がある。こちらは有栖宮川幟仁親王の筆による顕彰碑である。

王仁が実在か否かは別として、江戸時代以来ここで王仁が祀られてきた。もともと渡来系の影響の強い地域である。また、王仁の子孫と称する西文氏(かわちのあやうじ)は、ここから比較的近い羽曳野市古市に勢力をおき、文筆をもって朝廷に仕えた。その関係の寺や古墳などが多く残る地域である。




顕彰碑 「中央朝鮮協会」の名前が彫られた玉垣 御墓谷とされた所。奥の緑が墓所

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