古市の寺社1(葛井寺、野中寺)
葛井寺山門

古市周辺は古墳の集中地帯であるとともに、百済系渡来人の集住地帯であった。古市は大和からの出口に当たり、難波から大和への水運の拠点になる地域である。近くに古市大溝があり、関係するとも言われる。ここに大和朝廷が渡来人を配した。もともと西文氏(かわちのあやうじ)の勢力がつよいところであるが、そこに新たな渡来人が来て、文化的に融合していった特殊な地域である。

葛井寺(ふじいでら)は葛井氏の邸宅跡に立てられた寺である。創建当時は2キロ四方に東西両塔がたち、七堂伽藍を有したという。葛井氏は百済から渡来した辰孫王の後裔であるとされるが、辰孫王は漢城時代の百済の16代の辰斯王(4世紀末)の王子とされる。葛井連の姓は、戸籍などを形成して徭役や租税を決めた者として知られる白猪胆津をだした白猪氏に与えられた姓である(720)。子孫は平城天皇妃(藤継子)として皇室と姻戚関係を結ぶほどの権勢を誇った。なお平城天皇の子に在原業平がいる。

野中寺(やちゅうじ)は船氏の氏寺である。法隆寺式の伽藍配置で知られていて、礎石が残されている。聖徳太子の御学問所あったことから、聖徳太子の造立ともいわれる。船氏は葛井寺と同じく辰斯王の王子、辰孫王の後裔で、欽明天皇の時に船舶の税金徴収を担当した事から、船史と任命された。

船氏の始祖、王辰爾は越の国に来た高句麗の使臣が持っていた烏の羽根に書かれていた上奏文を読んだ人と伝えられている。寺の境内には津・船・葛井氏の共同墓地であった寺山古墳から出土した石棺が置かれている。

野中寺木塔芯石 野中寺木塔跡礎石 野中寺石人像

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