漢城時代(한성:ハンソン)
漢江
(ソウルを貫流する:合井付近)
臨津江
(左手前で漢江と合流:百済時代山城より)

【建国伝説】

百済は伝説によれば紀元前18年に建国した。始祖の温祚王は、北夫余から逃れ卒本(中国桓仁)にいた趨牟(朱蒙=高句麗始祖)の子だという。温祚たちは南の肥沃な地へ逃れ、弟の沸流は仁川で、温祚は河南慰礼城に生活して国名を「十済」としたという。高句麗と同系と言うことを強調している。

【百済の成長】 実際は国としてまとまったのは4世紀前後といわれる。3世紀半には朝鮮半島西南部に馬韓が50カ国あったが、百済のおきた金浦平野は帯方郡に近く、その影響を受けて力を強めたと考えられる。国政には帯方郡の中国人も関与していたようである。帯方郡の消滅とともに高句麗と直接対峙するようになった。

近仇首王(375-384)は平壌まで攻め入り、高句麗故国原王を殺した(371年)。その一方、加倻に進出して親交を結ぶとともに、太子の時代(近肖古王(346-375)のとき)に倭へ七支刀を送った。それ以外にも大陸の文化を倭国に積極的に伝えた。千字文などの文字を伝えたとされる王仁もこの時期の人である。
     
【高句麗と百済】
高句麗、新羅が前秦(北朝)と結びついたのに対抗して、百済は東晋(南朝)や倭と結びついた。そのため中国南朝の影響が強く、384年に東晋から仏教が伝わった。396年には高句麗の広開土王の侵攻によって打撃を受けた。そのため阿莘王(392-405)は一度高句麗に下ったが、すぐ倭と通じて高句麗と対抗した。新羅が高句麗の勢力下に入ったのとは大きく異なる。

阿莘王の死後、日本に質として送られていた腆支が王(405-420)となり、倭との関係を維持する。高句麗では長寿王の代となり、百済を攻撃した。蓋鹵王(455-475)は殺され、一旦滅亡した(475年)。王子文周は熊津へ逃げて国を再興した。

【漢城の地理的条件】
漢城は現在のソウルのことである。百済時代の都はソウルの南東部にある。ソウ ルは朝鮮半島を支配するためにとても優れた 環境にある。漢江 が貫通しているが、漢江は上流で峠越しに洛東江につながり、河口部では臨津江などによって朝鮮半島北部まで抑えられる。海伝いに韓国各地や中国山東半島へ行ける要衝でもある。また、漢江河口の金浦平野は肥沃で生産性が非常に高い。その様な条件を背景に百済は力を持つことが出来たのであろう。

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