平野を求めて都を移した百済
 
百済はもともと漢江の下流に発達した国である。 今のソウルの松坡区にはその頃 の古墳群や、 王宮があったといわれる風納土城夢村土城(オ リンピック公園)などが残されている。

百済は弁韓、馬韓、辰韓といわれる三韓のうちの 馬韓にあたるが、そのなかで百 済が成長した理由の一つは、穀倉地帯である金浦平野を支配することができたことである。また、すぐ北には中国の漢の四郡の一つだった帯方郡があって、文化 的にも刺戟を受け続けたこともある。同時に漢江沿岸を支配したため、海づたいに勢力を広げることができた。これによって4世紀後半には、馬韓全体を支配下 におき、全羅南道沿岸まで支配でき た。

漢江河口から南に向かうと、黄海に突き出た半 島、その名も唐津(泰 安)半島がある。こ こから船で中国の山東半島は近く、百済人が多く住んだという記録もある。

ところが、帯方郡が高句麗によって滅ぼされる と、高句麗の勢力が南下して百済 と直接対抗するようになった。ソウルに都のあった百済は475年、高句麗によって滅ぼされ、そこから南の熊津(公州)に都を移した。ここは周囲が山に囲ま れた錦江の盆地にあたり、防御には優れているが、ここにいたのは長くなかった。盆地が狭く、生産基盤が弱いからである。

そのため、同じ錦江の流域の泗沘(扶余)に都を 移した。538年のことであ る。ここは北側に山があって、防御に有利な反面、広い平野が広がっているのである。さらにその南は金堤平野などの穀倉地帯が木浦のあたりまで広がってい る。百済もその辺を視野に入れたのか、扶余からさらに南にある益山に都を移そうとしたという説もある。実際に益山近辺には百済時代の遺跡が多く、百済最大 の寺である弥勒寺もここにあるのだ。

その様な穀倉地帯が奥深く広がるため、馬韓の南 部は百済の地域であるが、もう 一つ別の勢力が長く続いたようだ。百済とは墓の形式が違い、甕棺墓が多く分布するのだ。百済南方と倭との行き来も相当あったようで、この地域だけ日本にし かないはずの前方 後円墳があることでも知られている。

このように百済は広い平野を求めて都を移して いった。しかし、中国に強力な唐 ができ、新羅に中国への出口になった唐津半島を奪われ、両国に囲い込まれるようになり最終的に亡びてしまったのである。

扶余近郊からみた平野
錦江(赤→)、 扶蘇山(青↓)
益山の平野
中央黒い部分は高麗人参畑
益山弥勒寺
韓国で最も古いとされる石塔がある
 
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