伽耶とは      (こちらも参照)

【伽耶とは】
伽耶は韓国南部、新羅百済に含まれなかった小国家である。「加羅」、「駕洛」などとも呼ばれる。およそ、現在の慶尚南道全域と慶尚北道、全羅南北道の一部にあたる。もともと朝鮮半島南部は馬韓、辰韓、弁韓あわせて70の小国があった。伽耶の地域は弁韓があった。弁韓ができる前の新石器時代から人々がいたところで、その中からは縄文土器や、九州腰岳産の黒曜石が発見されている。

弁韓は紀元前2世紀末頃からできた地域で、「漢」の文化の影響で鉄器文化が広がった。「三国志」魏書東夷伝ではここで産出する鉄を媒介にして楽浪、帯方、馬韓、東濊、倭と交流したと書かれている。伽耶という名前も金官(クムグァン)伽耶に栄えていた狗邪(クヤ)韓国に由来する。

4世紀頃、楽浪郡や帯方郡の滅亡と高句麗の南下が刺激となって、馬韓の百済、辰韓の新羅が強大な国家に成長した。弁韓も国ができてきたが、百済や新羅のような強大な統一政権はできずに、有力な国を盟主とした小国の連合にとどまった。その理由に洛東江沿いの盆地が続き、広い平野がなかったことが指摘されている。そのうえそこそこ肥沃なのだ。

伽耶の歴史の細かいところは分からない。『三国遺事』の「駕洛国記」や、『日本書紀』『三国史記』、金石文などから復元されるに過ぎない。これらの中で盟主となったのは、「金官伽耶」と「大伽伽耶」である。それ以外に小国が分立した。4世紀には金官伽耶が盟主的地位にあった。

【伽耶の伸張と倭】
4世紀末から5世紀初めの伽倻は「倭」「百済」とともに「高句麗」「新羅」に敵対する勢力であった。好太王碑によれば、高句麗が倭人を追撃して、新羅から「任那加羅(金官伽倻)」へ進軍している(400年)。5世紀になると伽耶南部は高句麗の進出によって大打撃を受け、さらに新羅の勢力が伸びることによって衰退した金官伽倻にかわり、大伽倻が盟主になり、加羅国王荷知が中国南朝の「斉」に朝貢して「輔国将軍加羅国王」に冊封されるほどになった(479年)。

【新羅、百済の進出】
475年、百済が高句麗の攻撃で漢城を奪われ、熊津(公州)に遷都すると、百済は南方に積極的に進出するようになり、伽倻南部にも勢力を拡げた。6世紀に入り本格的に力をつけた新羅は百済と抗争関係にはいるが、伽倻に対するこのような百済の動きに対抗して、一部の国は新羅に接近した。一方で新羅も伽倻に勢力を伸ばしていった。この様子は洛東江を境に土器の性格が変わることでも分かる。「大伽倻」は、自己の勢力下にあった「己文」「帯沙」を513年に百済に奪われると(513年)、新羅に結婚をもとめた(522年)。一方で大伽倻の動きに対抗しようとした伽倻南部は倭国に救援を求めるが、新羅と通じた九州の磐井に押さえられてしまった(527年の磐井の乱のきっかけ)。

【金官伽耶の滅亡】
新羅は「金官伽倻」を併合して(532年)、王族を新羅の都(慶州)に移して優遇した。新羅の三国統一に活躍した金庾信は、最後の王、仇衡の曾孫である。金官伽倻の滅亡に伽倻諸国は危機感を持った。安羅伽倻は百済に接近して百済軍が駐留した。同時に倭にも接近した。一時期伽倻からの使者が滞在したこともある。

【百済の抵抗と伽耶の滅亡】
この地域に勢力を伸ばそうとした百済は、ここに関心を持っていた「倭」からの使節も交えて「任那復興会議」を開いたが(541、544年)、百済、倭、伽倻の思惑が異なり失敗した。百済と新羅の伽倻を巡る争いは、両国の管山城(忠清北道沃川)で戦いで結論が出た(554年)。この戦いに勝利した新羅は勢いを得て「大伽倻」を併合し(562年)、伽倻は滅亡したのだ。

伽倻と倭の関係も非常に深い。日本の古墳の多くから伽倻系の鉄製甲冑や馬具、冠がでてくるし、伽倻の地域に小規模 ながら日本独自の墓制である前方後円墳があることもそのことを語っている。

金海着陸直前に見える対馬(雲の下) 亀卜 泗川勒島出土(青銅器時代) 黒陶と弥生土器 泗川勒島出土

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