金庾信(キムユシン)将軍墓

金庾信(김유신595-673)は新羅が三国を統一したときに中心となった将軍である。金官伽倻(금관가야:クムグァンガヤ)の初代、金首露(김수로:キムスロ)の12代孫で、曾祖父は金官伽倻の最後の国王、仇衡(구형:クヒョン)である。

15歳の時に、新羅の美男子武装集団である花郎(화랑:ファラン)に入り、高句麗、百済との戦い武功をあげた。このころ唐は女性の善徳王を廃止するように主張していた。唐に従おうとした者もいたが、金庾信はむしろ新羅独自路線を主張して次の王も女性の真徳王(진덕왕:チンドクワン)を建てるとともに、のちに武烈王(무열왕:ムヨルワン)となる金春秋(김춘주:キムチュンジュ)と結んで力をつけた。

660年、唐軍と一緒に百済を滅ぼした。661年から金庾信の総指揮で高句麗を滅亡させようとしたがうまく行かず、668年、再び唐と連合して、息子の金仁問(김인문:キムインムン)を主将として高句麗を滅ぼした。その後唐が朝鮮半島を支配する事に反対して唐と争い、百済の故地と、高句麗の大同江(대동강:テドンガン)以南を回復した。一方でそれ以北の地域は失ってしまった

王は金庾信に総理よりも上の格の大角干という位を与え、死後、興武大王(흥무대왕:フンムデーワン)という王号を追贈した。そのため、墓の前に立てられている石碑には、王の墓を示す「陵」の字が彫られていたが、その後それを埋めて、「墓」と彫りなおした跡がはっきり分かる。古墳が実際に金庾信の墓は別として、墳丘のまわりには十二支像のレリーフが埋め込まれ、地面にも蝋石製の十二支像が埋められていた。まわりは忠孝洞(충효동:チュンヒョドン)古墳群で多くの古墳が遺っている。石室を見られるものもある。

なお、市内、隍城(황성:ファンソン)公園には金庾信像がある。

金庾信像 像の土台の花郎精神を示したレリーフ

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