聖徳(성덕:ソンドク)王陵
|
聖徳王(702-737在位)は武烈(무열:ムヨル)−文武(문무:ムンム)−神文(신문:シンムン)−孝昭(효소:ヒョソ)の次の王で、聖徳王から2代後の景徳(경덕>:キョンドク)王のころまでが新羅全盛期であった。エミレの鐘も聖徳王の時に作らせたものである。
新羅は唐とともに三国を統一したが、その後関係が悪くなった。両国関係は聖徳王のころに修復され、新羅の政治的安定をなしとげた。そのため、新羅に唐の習慣が多く流れ込んでくる。墓の作り方も同様である。
墓の前を文人、武人、獅子が守り、墓のまわりを十二支像が守るという習慣が入ってきたのである。善徳(선덕)王陵では古墳のまわりを自然の丸石で覆っていたが、神文王陵の時に板石に代わり、三角の支え石がそれを支えるようになった。聖徳王陵の時には十二支像がその間に立てられるようになった。
その後掛陵(괘능)や九政洞(구정동:クジョンドン)になって板石に十二支像がレリーフのように彫られるようになり、十二支像が新羅独自に発展するようになる。その一部は日本にも流れ込み、キトラ古墳や河内飛鳥に影響が見られる。なお、聖徳王陵の十二支像のうち状態のよいものは慶州博物館に移されている。
この古墳の隣に孝昭王陵がある。こちらは円墳である。また近くに九政洞方形墳がある。慶州で唯一の方墳で、王族の子供の墓と考えられている。石室に入ることができ、屍床も残っている。そこから遺体は170センチ以上あったと推定され
る。