金首露(김수로:キムスロ)王陵

西暦42年に金官伽倻  の王として即位したとされる金首露王の陵。亀旨峰(구지봉:クジボン)から近いところにある。首露は天から下りてきた卵から生まれ、189年に死去するまで統治したと伝えられる。

金官は鉄の輸出などで伽倻の盟主であったが、400年の高句麗、新羅の攻撃以降衰退し、大伽倻(대가야:テガヤ)にその地位が移る。金官伽倻は532年、第10代仇衡(구형:クヒョン)王の時に新羅に滅ぼされた。新羅三国統一の中心となった武将である金庾信(김유신:キムユシン)は仇衡の曾孫である。

本来、金首露が埋葬されるとすれば木棺墓のはずである。また、そのころの金官の中心地域は、王陵のある大成洞地域ではない。陵も統一新羅期の形式で作られている。金春秋(後の武烈王)が金庾信の娘と結婚したことと関係あるかもしれない。武烈の息子である文武王(문무왕:ムンムワン)のときまでここで祭祀が続けられた。

新羅が亡びた後も、この「陵」は整備され続けた。なお、金官の王の墓とされるのは他に仇衡王の墓とされるものがある。こちらは山清郡にあるが、新羅時代末期から高麗時代初期に作られた石塔である。が首露の陵であるかは別問題である。

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