高霊(고령:コリョン)・大伽耶
こちらも参照のこと
高霊の町並み(池山洞古墳より) 復原された製鉄炉(大伽耶博物館)

【高霊と大伽耶】
高霊は大邱から1時間ほどの距離にある。洛東江から分かれた大加川、安林川沿いの盆地である。両河川はすぐ下流で合流し、昌寧付近で洛東江に注ぐ。また上流に行けば峠をこえて、蟾津江を通じて海に出られる。さらに峠道で安羅伽耶、百済方面にもつながる。近くを流れる洛東江左岸は新羅の影響圏である。洛東江が事実上使えないときに、川をさかのぼって蟾津江を通じて海に出られる立地は、大伽耶の発展に大きく影響を与えた。また、近くには海印寺があるが、これも大伽耶の故地だったことと関係あるかもしれない。

伝説によれば42年頃に始祖王(伊珍阿鼓)が出て半路国を建てたのが、大伽耶の前身とされる。初代王は伽倻山の神が生んだ2人の子供のうちの1人であるという。そしてもう1人が金官伽耶の初代王である金首露になったという。その後滅亡までに16代の王を数える。

【大伽耶の成長】
伽耶は統一政権ではなく、有力な国を盟主にしてゆるやかにまとまる連合政権である。初期のうちは、鉄資源を握った金伽耶倻が中心であったのに対して、5世紀後半からは大伽耶が有力になる。もともと弁韓時代は「半路国」と呼ばれたが、4世紀に冶爐面の鉄鉱が開発されて力がのび「大伽耶」となる。日本書紀には「半跛」として書かれる国である。

400年の広開土王の伽耶攻撃で金官伽耶はじめ洛東江下流地域が大打撃を受けるたが、この地域はそれほどの被害を受けなかった。そのため、大伽耶は洛東江中流域の国をあわせて、大きな勢力の盟主となった。その勢力は「大伽耶文化圏」というほどで、金官伽耶や南海岸地域を除いて殆どの国がその勢力下になった。むしろ領域国家化していたと見てもよい状態であった。

王族クラスの古墳群である池山洞古墳群で大きな古墳が現れるのも、5世紀後半の頃からのことである。池山洞古墳群をはさんで、主山には王城である「主山城」と、その麓には王宮跡が発見されている。

また、中国南朝「宋」が451年に倭王「済」(允恭天皇とされる)に対して与えた称号(使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国書軍事安東大将軍倭国)に「任那」とならび「加羅」が加えられていることからも、かなり勢力が伸びていたことが分かる。日本側から求めた称号には「加羅」が入っていないのに、中国側が「任那」と別に「加羅」の称号をつけたのである。この称号は倭王「武」(雄略天皇とされる)に与えられた称号でも同様であった。

【百済と大伽耶】
475年百済が熊津(公州)遷都以降、伽耶南部に勢力をのばすようになったが、それに対抗するように大伽耶は新羅に接近する。は百済の動きに絡んで中国との接触を断念するが、一方で大伽耶は479年に中国南斉に使いを送った。加羅国王に冊封された国王荷知(ハジ)は大伽耶の王とされる。このころの古墳から「大王」と彫られた金冠が発見されていて、他の伽耶諸国に比べて中国から見て一段高い扱いになっていたようである。

6世紀にはいると、百済は大伽耶の勢力の下にあった己文(現在の南原)と帯沙(現在の河東)を奪う(513年)。このような百済や倭の進出に対抗するために、大伽耶の王は522年に王は新羅法興王に請婚した。このとき新羅から100人の従者をつけたが、新羅の衣冠をまとったため、関係が悪化した。その後新羅とは付いたり離れたりの関係になる。

【大伽耶の滅亡】
新羅が本格的に進出して、金官伽耶を滅ぼすと、百済は聖王の主宰でいわゆる「任那復興会議」を行うが、そのときの最有力国の一つであった。

しかし、結局562年に大伽耶は新羅に降伏する。その前年新羅の真興王は昌寧まで来て拓境碑を築かせているが、このときすでに大伽耶は孤立状態だった。洛東江下流地域を新羅が支配していたからである。池山洞古墳群でも大きな古墳は消滅した。

冠(国立中央博物館) 土器(国立中央博物館) 大伽耶の領域(大伽耶博物館)

韓国の歴史     前のページ     目次     HOME      次のページ