伽 耶とは
(総合資料として配付したものである。図は著作権の関係で一部の掲載にと どめた。)


●韓国南部にあった三 韓 の一つ、「弁韓」が発達したもの。 

  ・馬韓→百済
  ・辰韓→新羅
  ・弁韓→伽耶 伽耶:伽倻、加羅などとも書かれた。任那:伽耶の一小国(金官伽耶とされる)。
           日本書紀では伽耶全体をさす

          倭は伽耶を通じて百済や中国と繋がる。
          百済も伽耶を通じて倭と交渉(軍事力)。


3世紀の朝 鮮半島
5世紀の朝鮮半島

伽耶は最後まで1つにまとまれなかった  

●理由
 1. 時期的なもの
       新羅、百済が辰韓、馬韓を1つにまとめる頃に、まだまとめきれなかった。
    百済:帯方郡がなくなったことと豊かな平野。中国からの刺激。
    新羅:百済が出来たことと、豊かな耕地。谷伝いに勢力が広げられる。

      ※伽耶がまとまる前に両隣に百済と新羅がまとまってしまい、両国に狙われる存在となった。

 2. 地理的なもの
   伽耶は小国でもやって行けた:
   洛東江にそった盆地に発達。まわりは山。それだけで完結した世界。
   そのため盆地事にクニが発達した。しかも川沿いのためどのクニの土地はゆたか。
   同じように豊かなら上下関係は出来にくい。

      ※愛知県が平成の大合併でもほとんど合併市町村ができなかったことと似ている
          →その時に有力な条件を持っている国が盟主になれば十分。



朝 鮮半島南部
伽耶の部分を拡大
●盟主

 初期 金官伽耶

       海に近い→貿易に有利 (対馬まで60キロほど。海岸伝いに中国まで)
       鉄の産地→武力(青銅器に対して固い武器)  
       高句麗の侵入で大打撃(400)

 後期 大伽耶
       鉄の発見、金冠伽耶の衰退。大文化圏(金官と別の国と中国側も認識) 

 伽耶の終焉→新羅、百済の進出によって動揺する。
       大伽耶は新羅と結ぶ→(反発した勢力は倭と結ぼうとする)磐井の乱のもと
       金冠伽耶:新羅に滅ぼされる(532)→百済、倭の対抗
            →任那復興会議(541,544)…安羅伽耶
       大伽耶:新羅に降伏(562)。

●深い日本との関係
  1 日本各地から伽耶の馬具、鉄製品などが出てくる。
    神社の名前

  2 伽耶の各地から日本系の土器、石器 (百済から出てくるものも伽耶から出てくる形式のものしかない)

   3 伽耶各地に倭系古墳がある。
     韓国で最初に発見された前方後円墳でないかとされたのも伽耶地域。小伽耶の松鶴洞古墳。 
     結局2つの円墳が並んだだけだったが、間違えられるのも不思議でないほど日本の勢力が関係するところである。
     実際、松鶴洞古墳1号墳の一部は、日本式(九州式)の横穴石室墳である。

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