日本の歴史(4)
【南蛮貿易】
戦国時代にあたる時代は、ヨーロッパではルネサンス、宗教改革、大航海時代を迎えていた。日本ではポルトガル船が種子島に漂着して以来(1543)貿易が始まった(南蛮貿易)。これにより鉄砲が急速に普及し、城の構造が変わった。唐辛子が伝わったのもこの頃である。フランシスコ=ザビエルの来日(1549)以来、キリシタン大名も登場し、天正遣欧使節も派遣された(1582)。

【織豊政権】
この時代、全国統一の野望を抱いた織田信長は、室町幕府を滅ぼすとともに(1573)、比叡山延暦寺や石山本願寺などの宗教的権威を屈服させるなど、権力を拡張した、しかし、統一事業の途中に明智光秀に殺された(1582)。豊臣秀吉は明智光秀を討ち(1582)信長の後継者の地位を築いた。石山本願寺の跡に大坂城を築き、権力を拡大し、全国統一を完成した(1590)。秀吉は検地と刀狩りを行い、大名や身分の統制を行い兵農分離が完成した。

秀吉の対外政策は、バテレン追放令(1587)により宣教師を追放し、海賊取締令(1588)により倭寇を取り締まり海上支配を強化した。一方で京都堺、長崎、博多の商人に南方との貿易を奨励した。この頃、明の勢力は衰退し、室町時代のときのような東アジアの国際秩序は変化していた。秀吉は中国に代わって、日本中心の国際秩序を作ろうとして、ゴア、マニラ、台湾に服属と入貢を求めた。

【文禄慶長の役】
秀吉は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対して入貢と明への先導を求めた(1587)。朝鮮は事情を調べに来たが、日本は攻めないと判断した。しかし、秀吉は15万あまりの兵を朝鮮に出兵させた(文禄の役(壬辰倭乱) 1592)。釜山に上陸後は順調に北進したが、李舜臣率いる朝鮮水軍や、義兵の抵抗、「明」の参戦により不利となった。そのため休戦・講和しようとしたが、秀吉の強行な態度で決裂して、再び14万の兵を朝鮮へ送った(慶長の役(丁酉再乱)1597)。日本は朝鮮南岸に多くの城(倭城と呼ばれる)を作ったが、秀吉の病死で終わった(1598)。

この戦争は東アジア全体に影響を与えるものとなった。朝鮮多くの被害を与え、犠牲を出したうえに、多くの人が日本に連れてこられた。その中には王族儒学者陶工などもいるし、数奇な運命をたどった者もいた。このことは今に至るまで朝鮮で強く記憶されている。「明」が倒れる原因の一つにもなり、日本では九州、中国地方で陶磁器生産が行われるなど新たな文化的発展を見せたが、一方で豊臣政権を衰退させる原因となった。

【江戸幕府の成立】
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦い(1600)で勝利した徳川家康は、江戸に幕府を開いた(1603)。家康は京都方広寺の鐘銘事件をきっかけに豊臣家を滅ぼし(1615)、3代家光(1623-51)に至るまで、改易や軍役、参勤交代などで大名に対する統制を強めた。同時に朝廷や寺社を統制するとともに、民衆統制も行ったが、特に島原の乱後(1637)、寺請制度を設けて宗門改めも行った。

16世紀後半、ヨーロッパではイギリス、オランダが台頭して両国とも東インド会社を設立してアジアへの進出を図っていた。家康は日本に漂着したオランダ船(160)のオランダ人ヤン=ヨーステンとイギリス人ウィリアム=アダムス(三浦按針)を外交顧問とした。また、肥前平戸に商館を開いた。家康はスペインとの貿易にも積極的で、メキシコとの交易も求めたが失敗した。日本人の海外渡航も盛んで、朱印状による貿易を行った。

【鎖国と対外関係】
幕藩体制が固まるに従い、海外活動や貿易に規制が加えられるようになった。スペイン、ポルトガルの侵略を防ぐための禁教政策と、幕府の貿易独占のためであった。そのため17世紀中頃までに日本人の海外渡航、帰国を禁止、外国船の寄港地を長崎に絞った。朝鮮からの漂流民も、長崎を経た後対馬経由で帰還させた。

家康は朝鮮との講和を実現し、対馬宗氏は朝鮮との間に己酉条約を結んだ(1609)。釜山に倭館が設けられた。最初の倭館は不便であったため、ほどなく移転する。朝鮮からは前後12回の使節が来日して、4回目からは通信使と呼ばれた。「琉球王国」は薩摩に征服されたが(1609)、独立国の姿をとらせて中国との朝貢貿易を継続した。琉球と幕府の間は使節の交換が行われた。蝦夷は松前氏にアイヌとの交易の独占が保証された。

【幕藩体制の安定と動揺】
家光の死後(1651)、社会秩序は安定してきた。4代家綱は武家諸法度(1663)を公布して殉死を禁じた。水戸黄門で知られる徳川光圀もこの時代の人である。5代綱吉(1680-1709)になると、文知主義がとられる。これは儒教に裏付けられたもので、綱吉は湯島聖堂を建てた。このころ儒学が盛んになったが、中でも幕府は朱子学を重んじた。さらに多彩な元禄文化も生まれた。

6代家宣のとき新井白石らは「正徳の治」を行う(1709-16)。白石は将軍の地位の向上をはかる。そのために通信使も簡素化し、朝鮮からの国書も「大君殿下」の称号を「日本国王」に改めさせた(1711)。これについては対馬・朝鮮側とかなりもめたが、8代吉宗の通信使で元に戻る。

17世紀の経済の発展で富裕な商人の力を伸ばした。吉宗は享保の改革(1716-1745)によって幕政改革を図った。そのため新田開発や甘藷、サトウキビ、朝鮮人参の栽培なども奨励した。漢訳洋書の輸入制限も緩めて実学を重視した。しかし、社会の変化は大きく、百姓一揆も増加する。とくに享保の飢饉(1732)や天明の飢饉(1782)のときには全国的に広まった

10代家治(1760-86)のとき、田沼意次が実権を握った。このときの通信使は事件の多いものであった。11代家斉(1787-1817)のとき、松平定信によって寛政の改革(1787-93)が行われた。この影響で1811年の通信使は対馬での接待となった。これが最後の通信使であった。寛政の改革は、厳しい倹約令で民衆の反発をまねき、「尊号一件」で幕府と朝廷の関係も崩れ、幕末へと向かい始めた。

【幕府の衰退と開国2】
18世紀末になると、日本近海にロシア船、イギリス船、アメリカ船が接近する。幕府は異国船打払令(1825)をだすが、アヘン戦争(1840)の情報が伝わると、薪水供与令にかえた(1842)。幕府は内憂外患と財政難に対抗するために天保の改革(1841-43)を行ったが、諸藩でも財政再建を行い、薩長土肥はじめ、改革に成功した雄藩が出現した。江戸では化政文化といわれる町人文化が最盛期を迎えた。古典の実証的研究による国学も発達する一方で、洋学も発達した。

カリフォルニアを手に入れて(1848)領土が太平洋まで達したアメリカは、清国との貿易のため日本に通商を求めた。ペリーの来航によって(1853)、日米和親条約を結び開港し(1854)、イギリス、ロシア、オランダ、のちにフランスとも同様の条約を結んだ。続いて日米修好通商条約を結ぶ(1858)。これは不平等条約であったが、これにより日本はそれまでの東アジアの外交秩序から、ヨーロッパを中心とする「万国公法」の国際秩序に組み込まれることとなった。

開国による経済混乱は激しい攘夷運動をひきおこした。勅許をとらずに日米修好通商条約を結んだ大老の井伊直弼は強硬な態度でこれを押さえようとしたが、自宅近くの桜田門外で暗殺された(1860)。これを受けて幕府は公武合体政策をとったが、結局尊皇攘夷論が優位になった。

長州の外国船を砲撃は(1863)、列国は四国艦隊砲撃事件をひきおこした。薩摩も生麦事件(1962)をきっかけとする薩英戦争(1863)で敗れるなど、攘夷の不可能なことが明らかになった。薩長は連合して反幕府の態度をとり、15代慶喜は機先を制して大政奉還を行う(1867)。一方で討幕派は王政復古の大号令をだして江戸幕府は崩壊した。

日本は明治維新へと向かうが、開国をきっかけにして朝鮮との関係は大きく変わった。日本の外交の方針が変化したことに対する朝鮮側の反発とともに、朝鮮が大院君の政権によって王権鎖国を強化した時期でもあり、雲揚号事件(1875)を発端とする江華条約(1876)まで、両国の関係は途絶えた。

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