金誠一詩碑

金誠一(キム・ソンイル:김성일)詩碑は西山寺にある。西山寺の場所には18世紀から明治元年(1868)まで対馬藩の外交機関である以酊庵があった。以酊庵は外交僧が住持をしていたところで、柳川一件といわれる「国書改ざん事件」もこの住持によって行われた。以酊庵は、明治時代になり朝鮮との外交権が対馬藩から外務省に移ることで廃止された。

以酊庵の初代住持玄蘇は、1580年から対馬に来ていて、自ら使節として朝鮮へ行ったり、文禄慶長の役の交渉をはじめ、第1回朝鮮通信使派遣に尽力した。

金誠一は1591年、朝鮮通信使として日本に渡った。宗氏は、秀吉の意図を伝える役を玄蘇に委ねて、副詞金誠一らと交渉させた。帰国した金誠一は、日本が朝鮮を攻める意思はないと王に伝えた。その報告のため、朝鮮は戦争に対する防備をとることが出来ず、釜山からあっというまに攻め込まれる結果となった。金誠一自身も義兵を指導したが、晋州城(チンジュソン:진주성)の戦いで死亡した。

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