小茂田浜神社
小茂田浜神社 拝殿 陸側(建物奥が古戦場)

対馬西海岸の南方、佐須浦は1274年(文永11年)、モンゴルの大軍が押し寄せた。佐須浦から川に沿って上っていったところに、銀山があり、それを狙って上陸した者と言われる。元寇は対馬全体に被害を与えているが、ここ小茂田では主将の宗資国が討ち死にし、首塚、胴塚などが残されている。神社の近くに資国の首塚と胴塚がある。

実際の戦闘の場所、現在の海岸よりかなり奥の場所で、当時は入り江が広がっていたという。江戸時代の半ばの新田開発政策で埋め立てられ、現在は水田地帯となっていて、どこで戦闘が行われたかは分からなくなっている。その戦死者の霊を祀る神社が、海岸沿いの砂州状になっている所に建てられている小茂田浜神社である。南北朝期にここに移されたいう。1974年にここで元寇700年祭が開かれた。対馬ではところどころに元寇の時のモンゴル軍の鎧甲が残されている。

小茂田浜神社の拝殿のわきには3つの砲弾が置かれている。1つは拝殿向かって左下にあるもので、日清戦争の時の「威海衛の戦い」の戦利品であり、もう2つ、拝殿の右下にある者が日露戦争のときの戦利品である。

記念塔 拝殿前の日露戦争の弾丸 現在の拡小茂田浜
 
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