演武堂(ヨンムダン)あと
(江華条約締結の地)
跡を示す碑

演武堂(연무당:ヨンムダン)は江華邑城(강화읍성:カンファウプソン)の城壁のそばにある。すぐそばに城門が残っている。日本との間で開国のための話し合いが行われた場所である。


1875(明治8)年、日本は朝鮮の開国を目的として江華島を攻撃した。朝鮮王朝の中で鎖国を貫いた大院君(대원군:テウォングン)から、開化派の高宗(고종:コジョン)に政権が変わったとの情報が入ったからである。このとき日本は朝鮮側の攻撃を引き出すような動きをしたため、そのことを口実に日本は問責の使節を送り、国交回復の交渉をおこなった。翌1876年日朝修好条規を結んだ。条約の内容は、いわゆる日本側に有利な不平等条約であった。
 
この条約は朝鮮側からすれば、江戸時代までの交隣外交の延長として条約を結んだと考えた。中国の冊封体制の下での関係であるが、日本は近代の国家関係で条約を結んだ。これによれば冊封体制は否定される。この食違いが後に朝鮮が日本の植民地になる流れを作ることとな る。

演武堂全景(説明板より) 条約締結風景(説明板より) 江華邑城城門

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