高麗宮址(고려궁지:コリョグンジ)
復元中の高麗王宮

江華島は潮流の早い海峡で本土と隔たっているため、防御しやすい島であった。1232年にモンゴルが高麗に攻めてきた。モンゴル−満州−高麗を抑えて、中国(宋)と対抗するためであった。高麗王朝は都の開京(개경:ケギョン=北朝鮮の開城〔개성:ケソン〕)をはなれて、江華島に避難した。騎馬民族で陸に強いモンゴルも、700mの海峡は渡れなかったからである。また、ここが開京から近いこともある。高麗政府はここで27年間対抗した(1259)。モンゴルは高麗政府を攻撃するため、日本への攻撃(元寇)は後回しとなった。

高麗は国を仏力で守ることを守るため八万大蔵経を作らせた。この大蔵経は日本の室町時代に日本側が多く求めたもので、国内に現存しているものも多い。この版木は韓国南部の海印寺(해인사:ヘインサ)に保存されている。高麗が破れ江華島を去った後王宮は跡形もなく壊された。発掘してもほとんど何もないくらいだったという。

高麗がモンゴルに降服した後、王子は元国の首都に人質となりモンゴル人の妃を娶った。このような状況は14世紀半ば恭愍王の頃から徐々に変わり、1392年高麗王朝はたおされ、朝鮮王国(李朝)時代へと変わっていく。朝鮮時代になっても軍事的に重要であったため、国防上の役所や防御用の鎮、城がここに作られた。

王宮あとの案内図 重要地域だったことを示す額

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