三井寺(園城寺)
一切経蔵

園城寺は672年、壬申の乱で敗れた大友皇子の子が父を弔うために建てた寺と 伝えられる。一方で百済系大友氏との関係も指摘されている寺で、三井寺の出来る前の寺の遺構も発見されている。境内のそばには弘文天皇(大友皇子)の陵と される古墳がある。

境内の新羅善神堂は、858年、円珍が唐から帰国する際に暴風にさらされて仏 に祈ったところ、船の中に老人が現れて、新羅明神が現れたことにちなむとされる。新羅明神は中国山東省の新羅坊で新羅人が祀っていた神である。源義光がこ こで元服したため、以後新羅三郎を名乗り、新羅善神堂のそばに墓がある。以後源氏に篤く信仰された。建物は足利尊氏の寄進である。新羅明神は園城寺に関係 の深かった百済系大友氏の氏神が変わったという説や、円珍が渡来人だったと いう説もある。いずれにせよ朝鮮との関係を思わせる。

一切経蔵は高麗版一切経(大蔵経)を安置するための堂で、回転式の八角輪蔵が 備えられている。大蔵経は高麗がモンゴルの撃退を祈って作られたもので、韓国の海印寺(ヘイン サ)に版木がある。

この建物は室町時代のものとされるが、元来、長州の国清寺の経蔵で、1602 年に毛利輝元によって移されたものである。国清寺は毛利元就の菩提寺であったが、元来大内氏の菩提寺として建てられた。室町時代、大内氏は西国大名として 朝鮮貿易を行っており、何度も高麗大蔵経を求めている。毛利輝元の父、毛利隆元も朝鮮貿易を行い、さらに輝元は文禄慶長の役のときに朝鮮へ出兵している。 このどこかの過程で入手したものであろう。なお、園城寺境内には1032年に作られた高麗鐘もあった。
 
仁王門 新羅善神堂 新羅三郎墓
 
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