日本の歴史(3)

【鎌倉時代】
源頼朝が力を得て、鎌倉幕府を作る(1192頃)。鎌倉幕府は封建制度によって成立した最初の政権であった。鎌倉は三方を山もう一方を海に囲まれ防御によい。そこに都市計画を行い拠点作りをした。

最初のうちは京都の朝廷や荘園領主の力も強く、政治も経済も朝廷と幕府の二元的支配であった。頼朝の死後御家人の間で政治の主導権をめぐる争いの中で北条氏が力を持った。頼朝の妻北条政子(1157-1225)の父、北条時政は2代将軍頼家を廃して、弟実朝を将軍にして、執権の地位を世襲した。

時政は侍所と政所の別当をかねて地位を確立した。朝廷との承久の乱(1221)は幕府の勝利に終わる。幕府は京都に六波羅探題をおき、朝廷の監視、西国の統括などを行った。幕府は北条政子の死後、2度にわたって場所を移した(12251236)、

【元寇】
鎌倉幕府のもとでも「」との正式な国交は開かれなかったが、私的な貿易や僧侶、商人の往来は続いた。13世紀、モンゴルはユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国を建設した。モンゴルが中国に「元」(1271-1368)をおこすと日本にも朝貢を強要した。「日本」が貿易で「南宋」と結びついていたためである。

執権北条時宗が朝貢を拒否すると、「元」と、冊封体制の下にあった「高麗」の連合軍は3万の兵で対馬、壱岐、九州を攻撃した(1274)。幕府が警護を強化する中で、「元」連合軍は再び攻めたが失敗した(1281)。この間に元から日本に派遣された使者は鎌倉の近くで処刑された。3度目も計画したが、旧「南宋」や「大越」の抵抗によって断念した。一方で、元寇の最中も、その後も私的貿易は続いた

幕府はその後も警備体制をゆるめず、西国一帯に勢力を強めていった。一方で、蒙古襲来で犠牲を払わせた御家人に対して、幕府は十分恩賞を与えられず、信頼を失った。また経済や社会の変動が御家人を苦しめた。このことが幕府を危機に陥れた。

鎌倉時代の文化は、地方出身の武士の素朴な文化と、日宋貿易などの影響の上にできあがった。仏教は、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など庶民を対象とするものが生まれるとともに、「宋」に渡った栄西らによって禅宗がおこされた。「宋」から多くの禅僧が来日し、幕府は円覚寺建長寺などを建立した。また、儒学の一つである宋学が伝えられた。建築も禅宗様(唐様)が伝えられた。

【鎌倉幕府の滅亡と南北朝】
朝廷では幕府の支持のもと、大覚寺統と持明院統が交替で天皇になる状態が続く。大覚寺統の後醍醐天皇は、これに不満で倒幕をはかるが失敗する。しかし、倒幕を支持する勢力が次第に増えた。足利尊氏は六波羅探題を攻め破り、新田義貞も鎌倉を攻めて得宗北条高時を滅ぼした。これにより鎌倉幕府は滅亡した(1333)。

後醍醐天皇は建武の新政を行うが(1334)失敗した。足利尊氏は持明院統の天皇をたてて(北朝)、建武式目を発表した(1336)。これに対して後醍醐天皇は自分を正統(南朝)として南北朝の動乱となった(1336-1392)。動乱の中で地方武士の力が増大して、地方を統括する守護が大きな役割を担うようになり、守護大名となった。

【室町時代】
南北朝の動乱は3代足利義満の時代に収まり、南北朝は合体した(1392)。幕府もようやく安定して、それまで朝廷の保持していた権限を幕府の管轄下において権限を強めた。地方には鎌倉府、九州探題をおいた。室町幕府は将軍と有力守護の均衡の上に成り立っていたが、6代将軍義教は将軍権力の強化をねらって専制的な政治を行い、鎌倉公方を滅ぼした(1441)。

これをきっかけに関東は戦国の世に突入する。しかし将軍の専制化は義教の殺害(1441)で挫折し、以後将軍の権威は揺らぐ。有力守護家や将軍家でも内紛が起こり、応仁の乱(1467-1477)が起こった。これにより全国的に戦国の世に突入し、下克上の戦国時代となる。各地で戦国大名がおこり、北条早雲、上杉謙信、武田信玄、毛利元就らが登場した。

【室町時代と東アジア 1】
南北朝動乱のころ、対馬、壱岐、肥前松浦地方の住民を中心に倭寇が盛んだった(前期倭寇)。「高麗」は倭寇の禁止を求めたが、内乱中の幕府はこれを押さえられなかった。中国では「明」が建国して(1368)、伝統的な東アジア国際秩序の回復を目指した。足利義満は「明」に使者を派遣して冊封され(1401)、朝貢形式の国交を開き、貿易を独占した(勘合貿易)。室町幕府の地位は国際的に認められ、それを基盤に国内統治ができる。なお、この頃「琉球王国」も成立して(1429)、明や日本と国交を結ぶ。琉球は盛んに中継貿易を行った。

中国の動きに呼応するように、朝鮮で「高麗」が倒れ朝鮮」(1392-1910)が建国した。朝鮮は倭寇の禁止を日本もとめ、義満もこれに応じたため両国の間に国交がひらかれた。朝鮮との貿易は幕府だけでなく、守護、国人、商人も参加して盛んに行われたが、朝鮮は対馬の宗氏を通じての通交の制度をつくり統制した。

【室町時代と東アジア 2】
朝鮮は倭寇の本拠地である対馬を攻撃した(世宗 1419)。朝鮮は倭寇対策のために日本人に対して優遇策をとったが、一方で貿易のために富山浦、乃而浦、塩浦の三浦を開き(1426)、首都漢城に倭館をおいた。三浦の住民の多くは対馬出身であった。その後朝鮮と対馬の宗氏との間で癸亥条約(1443)を結び、貿易を独占させた。

15世紀末、倭寇の被害が減ると、朝鮮は日朝貿易に制限を加え始めた。これに不満を持った三浦の住民が「三浦の乱」(1510)をおこした。2年後に対馬との交易は再開したが、日朝貿易は衰えていった。16世紀中頃には交易の場所も「富山浦」1カ所に制限された。そこには日本人の生活が続いた

勘合貿易は4代義持のときに一時中断したが(1411)、6代義教のときに再開して(1432)莫大な利益を得た。15世紀後半、幕府が衰退すると、勘合貿易は堺商人と結びついた細川氏、博多商人と結びついた大内氏の手に移った。寧波の乱(1523)後は大内氏の独占となるが、16世紀半ばの大内氏の滅亡で勘合貿易も終わる。このころから明の勢力も落ち始めるが、それとともに倭寇が再び活発になった(後期倭寇)。

室町の文化はこのような東アジアとの交流を背景に、武家文化と公家文化、大陸文化と伝統文化の融合が進み、広い基盤を持つ文化となった。伝統的な寝殿造りと禅宗様の融合した金閣、中国からの渡来僧、留学僧らによる水墨画などがそうである。さらに応仁の乱後、そのような文化が生活の中に取り入れられ、新たな独自の文化となっていった。銀閣がたてられ、書院造が現れた。枯山水の庭園様式などがそうである。水墨画も雪舟によって日本的な水墨画様式が想像された。

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