中国東北史(2)
  
【渤 海の成立と靺鞨】
「高句麗」、「百済」が「唐」 によって滅ぼされると、「唐」は朝鮮半島の支配をもくろみ平壌と熊津に都護府を置いた。しかし、「新羅」の反発により熊津の都護府は消滅し、平壌のそれは遼東に移され朝鮮半島支配は失敗する。一方で「唐」は高句麗人、靺鞨人を営州(遼寧省朝陽)に移すが、則天武后の混乱(690-705)で契丹人が反乱を起こすと、それに乗じて営州を脱出する(696)。脱出した乞乞仲像の子である大祚栄が「震国王」を名乗り(698)、「高句麗」の復興を目指して満州方面に領域を広げていった。そのため、唐も無視できず、玄宗は大祚栄を「渤海郡王」に封じた(713)。この国を「渤海」(698-926)という。

 ※契丹…遼河上流の遊牧民。中央アジアの騎馬民族であるウイグル(トルコ系 744-840)に属していた。モンゴルでは民族の
       交替が激しく、鮮卑(4世紀)、柔然(トルコ系・5世紀)、突厥(トルコ系・6世紀)、ウィグル、モンゴルが出現する。

【日本と渤海-海東盛国】
「渤海」は2代目の武王の時に領域の拡大を図った。渤海に従わない黒水靺鞨を服従させようとしたが、黒水靺鞨は「唐」に接近した。「唐」は、「唐」と黒水靺鞨で渤海を挟み込むためにこれに答えた(725)。「渤海」の南進に対して、「新羅」は「渤海」との間に長城を築いて対抗した(721)。「渤海」と「唐」は戦争状態になり、「新羅」も「唐」側に参加した(732)。戦争終了後「唐」は、「新羅」に浿江(大同江)以南の領有を正式に認めため、「新羅」は北方経営を進めた。

「新羅」・「唐」に対抗するために「渤海」は「日本」に使者を送った。その回数は727年以来32回にも及ぶ。「日本」からも13回使節を送った。「日本」は「新羅」との関係悪化や、朝鮮半島経由で「唐」に行きづらくなったため、最新の情報を「渤海」から入れるようになった。こうした中で「渤海」は安定した地位を築くことができた。

3代大欽茂のときに「唐」との関係を修復し、盛んに中国の文物を取り入れた。これに対して、唐は大欽茂に「渤海国王」の称号を送った(762)。9世紀の初めには黒水靺鞨を討ち、版図も朝鮮半島北部から沿海州に至り、「海東盛国」と呼ばれた。交易も「日本」、「唐」だけでなく西方諸民族との間でも盛んであった。こうした中で、「渤海」は「高句麗」・「靺鞨」の文化のうえに、唐の影響を受けて、独自の文化をつくり上げていった。

 ※黒水靺鞨…渤海を建てた南部の粟末靺鞨に対して、北部の靺鞨を言う。同じ靺鞨でも民族系統は異なると考えられ、
          南部が高句麗・夫余との関係が強いのに対して、北部はツングース系である。

【渤海の滅亡と契丹】

唐の滅亡(907)によって中国は「五代十国」時代に入る。渤海は「後梁」、「後唐」に朝貢するが、渤海内部の華美な 生活や政治上の対立が激化して衰退する。一方で「ウイグル」の衰退によって急速に力をつけた「契丹」は、東モンゴルを中心に勢力を広げた。

契丹の耶律阿保機は帝位につき(916)「遼」を名乗った(916-1125)。「遼」はモンゴルや、渤海を討ち(926)、のちに中国華北地方(燕雲16州)を手に入れるなど、絶大な勢力を誇った。「遼」は、満州に本拠を置きながら、中国も支配する最初の国家となった。このような支配体制は、「金」「元」「清」に受け継がれる。

「渤海」の一部勢力は、「高麗」(918-1392)に亡命した(934)。その「高麗」「新羅」を滅ぼして朝鮮半島を支配する(935)。一方、「契丹」は「渤海」を滅ぼさず、国名を「東丹」に変えた。しかし、あまり関心を向けなかったため、次第に渤海の故地は「契丹」の手から離れ、10世紀末まで地方政権が続いた。

五大十国を「宋」(960-1279)が平定すると、契丹との間で華北地方を巡って対立したが、契丹が優勢であったため、「宋」は契丹との間で和議を結んだ(1032)。この対立の中で、契丹は旧渤海地域にある地方政権(=女真)を、宋との対抗のために滅して(女真征討 983年、985年、989年)、勢力下においた。

「高麗」は建国直後に「五代」、「宋」から冊封を受けた。建国当初から「遼」と「高麗」は対立していたが、女真征討をめぐり高麗との関係が悪化すると、3回にわたり「高麗」を攻めた(993,1010,1018)。高麗は敗北し、「遼」の冊封体制に入った(1022)

 ※五代十国…唐が滅びた後、華北で約50年間に5つの王朝(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)が交替し、その他の地域でも
          多くの節度使が独立して10近い国が興亡したこと。

【女直と金】
「遼」と「高麗」が対立する中、「女直」が力をつけて、海路、「高麗」や「日本」を犯した。次第に力をつけた「女直」の完顔部は、12世紀初めにはもとの「渤海」に匹敵する地域を支配するようになった。すでに「遼」の国力は落ちていた。完顔阿骨打は「反遼運動」を行い(1113)、「金」を建国し(1115)、契丹や他の女直を支配下に置いた。「高麗」もまた「金」の冊封を受けた(1128)。「金」は「宋」と同盟して、「遼」を燕京から一掃する一方、かわりに燕京6州を得て「遼」を滅ぼした(1125)。「遼」は中央アジアに逃れ、「カラ=キタイ(西遼」)としてその命脈を保った。

「金」と「宋」は協力して「遼」を倒したものの、すぐに両国の間で領土紛争が起こった。金が「宋」の首都を攻撃(1126-27)したことで、「宋」は都を南京に移した(南宋 1127-1279)。中国北部を支配した「金」は多くの女真人をそこに移住させたため、移住した女真人は従来の文化風習から漢族のそれに同化した(漢化)。13世紀に入ると「金」は財政難から国力が衰退して、モンゴルのオゴタイ=ハーンによって滅ぼされた(1232)。

 ※1 女直…黒水靺鞨が契丹によって女直と称されるようになったと言われる。元々女真であったが、遼の皇帝の諱に「真」が
         含まれるため女直と書かれた。
 ※2 燕京…北京のこと。

【モンゴルの満州統治】
13世紀、モンゴルではチンギス=ハンの力が伸びた。「契丹人」耶律留哥はモンゴルと連合して遼東を支配下に置く(1211)。一方で「金」の将軍は遼陽で金から独立して「大東国」(東真国)を建てて(吉林省から咸鏡道)、高麗の東北をうかがった。モンゴルは「金」を滅ぼしたが(1232)、その後も「南宋」を滅ぼすことに関心があったため、満州の統治は手薄であった。満州はモンゴルの東方諸王の手によって半独立状態であった。女直も完全には服属しなかった。

一方で「南宋」を北から押さえるために、朝鮮半島には断続的進軍した(1231-59)。「高麗」(918-1392)は都を開京から江華島に移すなど抵抗したが堪えきれなかった。ついに高麗王は降伏し(1259)、その他の抵抗運動も平定された(1270)が、領土の一部を奪われた。モンゴルは「日本」へも服属を求める使者を送ったが(1268)、修好できずに日本を攻めた(1274,1281)。

「元」(1271-1368)に名前を変えた「モンゴル」が中国全体を支配し(1279)、東方諸王が平定されると、満州は「元」の直轄地になる(1287頃)。咸平に遼陽行省をおくが、ここでは瀋陽に亡命していた高麗人「洪福原」一族が重職を世襲し、満州における高麗人の中心地となっていく。ちなみに高麗の「忠宣王」(1298、1308-1313)は瀋陽王に冊封されていた。

【元の衰退と高麗】 
「元」末になると中央の統制が弱まり、北満州で争乱が起きた(1345頃-55)。中国本土でも紅巾の乱(1351-66)が起きる。その中で「高麗」恭愍王は軍隊を満州へ向け(1356)、「反元運動」と、遼陽・瀋陽にいる高麗人勢力を高麗国内から一掃しようとした。その和議で、咸鏡道を「元」に返さずに「高麗」のものとした。高麗からすれば高句麗以来の故地回復となる。

「元」の大都(北京)が「明」軍によって陥落すると(1368)、「元」はモンゴルに退却して「北元」(1371-88)となった。「高麗」恭愍王は「明」と冊封関係を結んだが、恭愍王の死後再び「北元」と冊封関係を結ぶ。「明」は「高麗」と「北元」の接触を絶つために満州経営を行った。一方で「北元」と接近した「高麗」は、「明」と結びつく勢力によって倒され、「朝鮮」が成立した(1392)。

(以上、「北アジア 史」(山川)などより)

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