中国東北史(1)
  
【中 国東北(満州)の地域的特徴】
中国東北のうち、朝鮮半島に近い山岳地域は「満州族」の故郷である。この地域は森林地帯で、その中を黒竜江、松花江などが流れる。そのため古くから毛皮獣、人参、牧畜が行われ、夏は川沿いの平地で農耕が行われてきた。ここにツングース系の民族が興亡した。一方で長春、瀋陽から遼東半島方面へ流れる遼河沿岸(東北平原)は中国人が早くから農耕をしていた。さらに東北平原をこえた大興安嶺東麓は乾燥地帯となり、モンゴル系の遊牧民族の地域となる。満州地域はこれら周囲の地域との関係で進展する。

 ※1 歴史でいう「満州」は、現在の遼寧省、吉林省を中心とする山岳地帯をさす。「満州国」の範囲より狭い。
 ※2 ツングース…東シベリア,沿海州・満州に分布する。粛愼、靺鞨、満州など。貊、夫余、高句麗は違うという立場が強い。

【秦・漢・匈奴の進出】
満州には紀元前6-5世紀に粛愼、貊などがいたという。ここに国ができはじめたのは、中国に「秦」(前221-前202)・「漢」(前202-後8)が成立したことに関係する。中国の戦国時代(前403-前221)に入ると、中国の「燕」が満州に勢力を広げ(前4-3世紀)、西北朝鮮方面へ進出した。「秦」・「漢」もその領域を受け継ぎ、「箕氏朝鮮」、「燕」の衛氏による「衛氏朝鮮」、「漢四郡」(前108)ができた。これにより中国文化の影響を多く受けた。一方モンゴルには匈奴が成立したが、彼らのスキト=シベリア文化も満州に大きく影響を与えた。新羅の早い時期の古墳からはスキタイの影響の強い遺品が多く見つかっている。

 ※1 戦国時代…周の諸侯が王と称して覇権争いした時代。やがて、多くの諸侯のうち「斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙」の7国が
        対立するようになるが、秦が強大となり中国を統一する(前221)。
 ※2 匈奴…系統不明の遊牧民族。スキタイの文化を取り入れて強大化して、紀元前5世紀から5世紀にかけて北アジアに
       一大遊牧民族国家を築き、しばしば漢族とも対立した。ヨーロッパで民族大移動の元となったフン族と同系統という
       説もある。

【夫余と高句麗】
前2世紀末には松花江流域に夫余がおきた。遼河流域につながる場所で中国文化の影響の強いところであった。一方高句麗のおきた佟佳江流域は遼河流域より内陸の山岳地帯であるため、中国文化の影響は遅れた。ここに高句麗がおきたのは、「前漢」の政治が衰えて、漢の対外的な圧力の弱まった前1世紀末のことであった。高句麗は「後漢」(25-220)の光武帝に朝貢する(32)が、一方で遼東、玄莬に進入して後漢を苦しめ、玄菟郡を現在の撫順まで撤退させたうえ(2世紀初)、遼東と朝鮮の要衝の西安(鳳城県)に進入した(2世紀半)。

 ※1 玄莬郡は漢四郡の一つで、当初は朝鮮の咸鏡道方面まで支配したが、まもなく南満州の蘇子河畔に後退して、
    満州での「漢」 の前線基地の役割を果たした。
 ※2 高句麗は「貊」から出たとされる。日本では「狛」の文字も用いた。夫余は「濊」の可能性もある(「朝鮮史」山川より)

【後漢の衰退と満州】
2世紀末「後漢」の政治力が落ちると、遼東郡を治めていた「公孫度」は独立して勢力をふるい始めた。「公孫」氏は楽浪郡を手中に治め、帯方郡を設けた(204頃)。その一方で、「高句麗」の王位継承問題を支援して、「高句麗」の本拠地(桓仁)を攻撃して壊滅的な打撃を与えた。そのため「高句麗」は分裂状態になり、都を丸都(集安)に移し新国を建てた(209頃)。

「後漢」が滅びて(220)三国時代に入ると、「魏」(220-265)は公孫氏を滅ぼして、楽浪郡や帯方郡を接収した(239)。この年は「邪馬台国」の卑弥呼が魏に使節を送った年(景初3)で、翌年「親魏倭王」に封じられている。「高句麗」は 「魏」と接するようになったが、高句麗が「呉」と接近して遼東に侵入したために魏に討たれた(244)。

 ※ 三国時代…後漢が滅びた後、「魏」(華北)・「呉」(長江下流)・「蜀」(四川)三国が対立した時代。

【魏晋南北朝時代と高句麗】
三国時代が終わり、「魏」を継いだ「晋」(265-316)が中国を統一したが(280)、「八王の乱」(290-306)などのため、「高句麗」のある辺境地域を顧みる余裕はなかった。しかも中国北部は「匈奴」の動乱に乗じて中国北部から騎馬系民族やチベット系民族が一斉に侵入する「五胡十六国」時代(304-439)に入り混乱状態になった。

「高句麗」はその状況を利用して勢力を伸ばして、楽浪郡を滅ぼした(313)。これによって中国の西北朝鮮支配は終焉を迎える。一方で鮮卑の「前燕」が遼東地方を支配するようになると、「高句麗」は勢力を遼東から南方に向きを変え、本格的に朝鮮半島に進出するようになり、「百済」、「新羅」などと鼎立するようになる。

 ※1 匈奴…1世紀中頃に南北に分裂した。南匈奴は漢に従属して農耕生活に入り、五胡十六国時代に再び登場する。
        北匈奴は遊牧生活を維持してタリム盆地に進出するが、後漢がオアシス国家を押さえたことや、鮮卑らの攻撃を
        受けて西へ移る。モンゴルは空白地帯となった。
 ※2 鮮卑…匈奴に変わってモンゴルに進出した民族。それまでは匈奴に服属していたが、2世紀後半に強大となる。4世紀に
        華北に入り、「前燕」(慕容部)、北魏(拓跋部)などを作る。モンゴル系とされるが、テュルクとツングースの混血と
        もいわれる。

【靺鞨の勃興と高句麗の滅亡】
一方で松花江方面では3世紀前半から「挹婁」が「夫余」に反抗し、松花江から沿海州に勢力をおくようになる。5世紀の中頃には「夫余」が衰退して、松花江に「勿吉」がおこり「北魏」(北朝 386-534)、「東晋」(南朝 317-420)に朝貢した。「勿吉」は6世紀中頃から「靺鞨」と名乗るようになる。中心勢力が変わった事による。一方「高句麗」、「新羅」、「百済」、「伽耶」、「倭」も4世紀以来の南朝、北朝とそれぞれ結びつつ国力の増大をはかった。倭では五王の時代に当たる。

「隋」(581-618)・「唐」(618-907)が中国を統一すると、東アジアの国際関係も大きく変わり、「唐」は「新羅」と連合して「高句麗」(668)、「百済」を(660)滅ぼした。「唐」は朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしたが、「新羅」の抵抗により失敗した。多くの遺民が「百済」、「高句麗」から「日本」へ渡り、日本の社会に大きく影響を与えた。また、満州の地は、靺鞨と高句麗遺民による「渤海」がおきた。

 ※ 「五胡十六国」の混乱の中で、拓跋氏の「北魏」が華北を統一して (439)、漢化政策を行う(北朝)。一方で「晋」は
   中国南部に移って続いたが、そのの後、「宋・斉・梁・陳」の4王朝が短期間に交替する(南朝)。この対立時代を「魏晋
   南北朝時代」という。

(以上、「北アジア史」(山川)など)

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