高麗神社
高麗神社入口 高麗神社拝殿

埼玉県西部の日高市は1896年まで高麗郡とよばれていた。716年に関東近縁にすんでいる高句麗人1799人をここに移して高麗郡を置いたと記録にある。高句麗人が中心となって開拓した。彼岸花で有名な巾着田も彼らの手によるものという。付近は縄文時代までの遺跡はあるが、古墳時代、奈良時代の遺跡はほとんどないそうである。

高麗神社は、高句麗人の長、高麗王若光を祭った神社である。高句麗は668年に新羅によって滅亡しているが、若光は666年に外交使節として来日したことになっている。その子孫とが代々神主を務めているが、武士の時代に入りこの地域に入ってきた武将が高麗氏を名乗ったことも関係して、現在は本家だけが高麗を名乗っているとのことである。なお伝承では若光は神奈川県大磯で上陸したとされている。鎌倉時代は新田方、北条方についてかなり苦労したとのことである。高麗家代々の墓も残っていて、初代の墓は塚状になっているとのことである。

神社の拝殿は現在は南面しているが、昭和9年までは東面していた。向きは直されているが、本殿は室町の様式である。入り口に高句麗神社と書かれているが、明治にこの神社を訪れた朝鮮人によって、本来は「句」の文字があるはずだと遠慮がちに揮毫されたものをそのまま使っているとのことである。また、この神社に参拝した後、総理大臣になった人もいるため、ここは出世の神社だという評判にもなっている。そのために多くの人が参拝した。また、神社には多くの韓国人が訪れ、李王朝最後の皇太子であった李垠、李方子殿下御手植えの木などがある。


寄進者の名前にも… 入り口の額 高麗氏系図(複製)

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