中国東北史(3)
 
【明・ 女直と 朝鮮】
「明」(1368-1644)の満州経営は、太祖「洪武帝」(1368-98)のときは「北元」を押さえるための政策であって、「北元」の勢力がなくなると顧みられなくなった。一方3代「永楽帝」(1402-24)は「燕王」として封じられていて、もともと満州と関係の深い皇帝であった。都を南京から北京に移すとともに積極的な満州経営を行い、女直を服属させた。女直には自治が認められていた。

元々狩猟民族である女直は、居所が少しずつ移っていった。特に南方へ移った建州女直は、北にむかって勢力を広げていた高麗に属した。朝鮮初代国王李成桂もこの地域の出身である。朝鮮も女直に対して懐柔政策をとって官職を与えたりした。永楽帝はこれを引き離したが、明と朝鮮の間に不満がたまることとなった。

「朝鮮」国王世宗(1418-50)は豆満江、鴨緑江方面に鎮や郡を築き、朝鮮南部から住民を移住させたりして、「朝鮮」に従わない女直を押さえようとした。現在の朝鮮の領域はこのときのものを基礎にする。一方で女直に対しても懐柔政策も強化されたが、このことについて「明」に強く叱責されたこともあった(1460頃)。「朝鮮」は日本に対しても倭寇対策のために懐柔政策を行う。

建州女直は、西北モンゴルの「オイラート」が「明」に侵入したこと(1449)に刺激されて、明の辺境を攻撃したため、明によって討伐され(1467)、明の直轄地と女直の地域の間に塀が築かれ区分けされた。

【清とロシアの進出】
明の討伐で一時期衰退した建州女直は、再び勢力を持ち直した。「明」は豊臣秀吉の朝鮮侵攻(1537-98)で打撃を受けた朝鮮」に援軍を出したり、女直との戦いの激化などで疲弊していた。そのときに建州女直(女直=女真。清になってからは「満州」)からヌルハチが出て建国し、国号を「金」(後金:清 1616ー1912)とした。2代ホンタイジ(太宗)は内モンゴルのチャハル部を従えると、国号を「清」と改めた(1636)。万里の長城以南にたびたび侵入するとともに、朝鮮を服属させた(1636)。

3代順治帝(1643-61)のときに「明」を滅ぼして、都を瀋陽から北京へ移すと(1644)、満州は人口が減り荒れた。満州人だけでなく、この地域に住んでいた漢人も華北へ移住したからである。清国は満州を特別な軍政下に置いた。朝鮮人越境問題がおこると長白山(白頭山)に定界碑を作った(1712)。このときの境の決め方が、その後の中国と朝鮮の間の領域問題につながる。

17世紀に入ると太平洋まで勢力が到達した「ロシア」が南下を始める。「清」は「朝鮮」兵の援助によって松花江で「ロシア」軍を撃退した(1654、58)。しかし「ロシア」はネルチンスクに植民を開始していて、清国は「三藩の乱」(1673-81)のために満州に出兵する余裕がなかった。結局、ネルチンスク条約によって両国の国境が定められた(1689)。なお、それより100年ほど遅れて「ロシア」は海路日本にも接近しはじめた(1792)。

18世紀になると満州人が漢人化し、奢侈な生活を送るようになった。「清国」は満州人を満州に戻す政策をとるようになる。一方で「清の」安定と漢人の人口増加に伴い、「肥沃で未開な満州」に漢人が移住した。女真族の故地に漢人が入ることを防ぐために、「清国」は2回にわたり封禁令をだしたが(1740、50)効果はなく、無人のはずの鴨緑江西岸にも漢人が増え、結局、封禁令は解除された(1867)。

【列強の満州注目】
19世紀も中頃になると、満州も世界の動きを無視できなくなる。1840年アヘン戦争が起こると、列強が満州に注目した。「ロシア」は「中国」へ毛皮を輸出するのにキャフタ経由(キャフタ−モンゴル−北京)では不便だったため、黒竜江(アムール川)に注目した。「清」は黒竜江の船舶の通行権を認めなかったが、「ロシア」は事実上植民化を進めた。黒竜江を探検して、サハリンが「島」であることを確認したうえで(1849 間宮林蔵は1809年に確認)、サハリンまで進出した(1853)。日本に来たペリーがサハリンに上陸することを押さえるためである。

しかしサハリンからは一度撤退する(1854)。日露修好条約締結直前であることと、クリミア戦争の余波でイギリス、フランに攻撃されることを防ぐためだが、アヘン戦争(1840)で中国に勝利した「イギリス」が朝鮮に進出することを「ロシア」は恐れた。実際にアヘン戦争の時にイギリス軍艦は大連付近まで来ている。「ロシア」は、アロー号事件のとき(1856-60)に結んだアイグン条約(1858)によって、黒竜江以北を「ロシア」領とした。さらに北京条約(1860)で沿海州を手に入れてウラジオストーク港を開いた。

【ロシアの南下と日本の北上】
ロシアは黒竜江地方の地勢の悪さを満州横断で解決しようとした。日清戦争後(1894)の三国干渉(1895)で日本から遼東半島を手放させた後、東清鉄道の敷設権を手に入れ(1896)、旅順口大連を租借する。朝鮮は「清」の宗主権から離れたが、日本の勢力を牽制しようとして、ロシアのこのような動きを利用したが、日本人による王妃の暗殺に終わり(1895)、王がを求める結果となった(1896)。ロシアも日本との決定的な対決を望んでいなかった。ロシアの勢力を利用できないことがわかった「朝鮮」は、国号を「大韓帝国」と変更し、自主独立の方向を示したが(1897)、その方向は「旧本新参」という、旧来のものを基礎として国作りをする復古的なものであった。

義和団の乱(1901)後「ロシア」軍は撤退せずに、朝鮮進出を企図した。その結果日露戦争(1904)が起こり、「日本」が「朝鮮」と南満州を勢力下に入れ(1905)、南満州鉄道を入手した(1906)。「ロシア」に変わり「アメリカ」がここに関心を持ったが失敗に終わり、「清国政府」も満州で積極的に主権を維持しようとした。現在の延辺は朝鮮人(現朝鮮族)が多く居住しているところであるが、ここの帰属問題を巡り日清協約が結ばれる(1909)。満州人が作った「清国」が崩壊すると(1911)、この地には漢人の「中華民国」に支配された。

このような流れの中で満州史は終焉を迎える。満州人の多くが漢化し、事実上漢人に吸収されるからである。満州語も死語に近い。満州は漢人のものとなり、漢化された満州人は故郷に戻るべくもないからである。

 ※満州語 ツングース系の言語。漢語の影響を受けているが、基本的に文法構造は日本語や韓国語と一緒。「てにをは」に
        あたる助詞もある。文字は満州文字。18世紀から19世紀にかけて衰退して、満州で話せる人はほとんどいない。
        18世紀に新彊の辺境警備に配属されたシボ族がわずかに残している。(もっと詳しくはこちら)
(「北アジア史」(山川)参照)
中国東北の歴史(2)    目次     HOME     日本の歴史(1)