大連とは(歴史)

【大連以前】
大連は中国の遼東半島先端にある都市である。この地域そのものの歴史は古く、古くから漢民族の支配してきたところである。一方で満州などの少数民族との関係もあり、秦の時代にはここに遼東軍が置かれ、満州方面の前線となっていた。勢力を伸ばしてきた高句麗の 支配下になったこともあり(402 広開土王の とき)、高句麗滅亡まで続いた。

【三国干渉】
都市としての大連の歴史は1898年に始まる。この地域は日清戦争で日本が清から得た場所であった(1895)。しかし、ロシア、フランス、ドイツの
三国干渉によりすぐ清に返還した。ロシアはウラジオストークが不凍港でなかったので、不凍港を確保するためにこの地に目をつけていた。それまでロシア軍艦は冬の間長崎を利用していたからである。ロシアに賛成したフランスは露仏同盟の関係、ドイツは新内閣が成立し、それまでの関係が悪かったロシアと関係修復をはかるためであった。

【ロシアの租借】
1898年、ドイツが山東半島付け根の膠州湾を租借すると、イギリスは山東半島の威海営を、ロシアは遼東半島南部を租借した。99年の期限であった(1997年まで)。旅順には清国の北洋艦隊の拠点があったが、大連は、青泥窪とよばれる漁村であった。しかし、旅順より大きな湾があることに注目したロシアはここに商業の拠点を築くことにした。そのときに「遠方」という意味の「ダリーニ」と名付けた。大連の都市構造の基本はロシアによって作られた。

【東清鉄道】
ロシアは1891年にシベリア鉄道をウラジオストークへ敷設する工事をしていたが(1891)、三国干渉を利用して、李鴻章との間で、満州を横切って、シベリア鉄道のチタからウラジオストークまでをショートカットする東清鉄道の敷設権を手に入れた(1896 露清密約)。資金はフランス資本の露清銀行による。さらに大連一帯を租借するときに、ハルビンから大連へ至る支線の敷設権も入手して開通させた(1901)。こうして「T」字形に満州の鉄道網ができあがり、朝鮮半島の両つけ根にあたるウラジオストークと大連が連結された。シベリア鉄道がヨーロッパとつながったのは1903年であった。また、大連港の北埠頭も完成して(1902)、広くヨーロッパや日本からの船がここを利用した。

【関東州】
日露戦争が始まると(1904)、大連はわずか3ヶ月で日本軍に占領された。日本にとって大連は大陸での補給基地であったし、日本人が初めて接した近代都市でもあった。旅順での戦闘が終了した後(1905)、ここに日本人が渡航し始めた。ポーツマス条約でロシアの租借地は日本に譲渡され、「関東州」となった。旅順に関東都督府がおかれた。長春から南の東清鉄道も割譲され、南満州鉄道となった。ダリーニは大連と改名された。

【大連の建設】
ロシアの都市計画を受けつぎ、都市の建設が続いたが、耐火建築しか認められなかった。そのため煉瓦による洋風建築がふえた。旧大連市役所のように和風建築の意匠を取り入れたものもある。また、大連駅や旧満鉄大連病院(中山医院)のように時代の先端を行く建物も多かった。住宅も比較的規模の大きなものが多く建てられた。そのため大連で育った日本人の中には、戦後日本に来て家の小さいことに驚いたという話が伝えられている。

関東州は清国・中華民国からの租借地で、あくまでも清国・中華民国領である。そのため、法制度なども他の植民地と異なるものであった。植民地ならばそこで支配される人は支配される国の国民になるが、租借地・関東州に住む中国人はあくまでも中国の国民である。関東州の地位は満州帝国の成立(1932)でも変わらなかった。

【戦後】
日本の終戦とともに満州国は瓦解する(1945)。ソ連軍は国境から南進を始めた。満州鉄道は中ソ合弁の中国長春鉄道公司の管理とされたが、事実上はソ連軍に接収された。大連もソ連に接収され、ソ連軍が駐留した。中国共産党大連市委員会が成立し(1945,10)、翌年旅大地区委員会となった。中ソ友好同盟条約締結によってソ連の管理は完全に終わった(1955)。

1982年に市名が大連市となる。1980年代に中国は改革開放路線をとり、1984年に経済技術開発特区に指定され、経済的に発展した現在中国第3の港湾都市である。また、もともとリンゴの産地で、農村も比較的豊かであったため、「万元戸」が最初に現れたのも、大連近郊であった。

すぐそこに港のクレーンが(勝利橋より) 大連駅前の屋台街

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