203高地
爾霊山碑(203高地に落ちた弾丸で作られた)

日露戦争で日本側は旅順港にあるロシア「太平洋艦隊」の動きを封じ込めよとした。そのため旅順港閉塞作戦を行い、狭い港口に船を沈めたりしようとしたが、ロシアの猛攻撃によりうまくいかなかった。

一方。日本軍は1904年11月27日より203高地の総攻撃を始めた。203高地とは海抜203mある山であるところから漬けられた。日本側はロシアに対抗するために1350mに及ぶ塹壕を構築した。日本軍は大本営の督促にもかかわらず、当初東鶏襟冠山などの東北方面突破も固執していた。塹壕を構築して東鶏冠山に伸ばしたりしたが、その攻撃はロシアの妨害によって失敗に終わった。そこで旅順西側の203高地攻撃に方針が変更された。

ロシア側は203高地を要地と考えて防御の対策を練っていた。10日間にわたる死闘の上、12月6日に日本側がおうちを占領することで、この戦いは終了した。

旅順港入り口(かすかに湾口が見える) ロシア側塹壕 「乃木保典君戦死之所」碑
 
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