東鶏冠山保塁
東鶏冠山保塁の碑(1916年建立) 露軍宿舎(爆撃で2階の床は抜けた)

東鶏冠山は旅順の東側を抑える山で、ロシアが作った三大永久要塞の一つであった。もともと清国が作った保塁であったが、露西亜側が1900年から4年掛けて修築したコンクリートのトーチカ(保塁)で、山の表側からは見えないように作られていた。また、一カ所が攻撃を受けると、他の砲台から集中砲撃を浴びせるとともに、交通壕を使って援軍を派遣できる体制であった。日本側は東鶏冠山を含む東北方面突破を考えていたために、ここで激戦となった。しかい、要塞化されていたために日本側が攻撃を仕掛けても、なかなか落ちなかった。

日本側はロシア側のトーチカに平行して陣地を築き徐々に前進していった。ロシア側の状況を知るためにわざと攻撃して、反撃の玉の様子から砲台の位置を調べたりもしたという。その中で徐々にトーチカの攻撃が行われ、1904年12月15日にはロシアのコンドラチェンコ少将が会議中に日本側の砲撃で死亡した。その場所には碑が残されている。結局203高地陥落後、防御網が崩れたことを受けて、1904年12月18日、ここは陥落した。

トーチカ跡(穴は日本軍による攻撃跡) 露国コントラチェンク少将戦没之所」碑
 
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