旅順とは(歴史)

【旅順の地理】
旅順は遼東半島の最南端にある。港湾の入り口は左右から半島が伸びていて、わずか250mの狭い海峡となっている。その一方で湾内の水深はかなりある。また港の背後は山が囲んでいる。このように軍事的に利用しやすい場所であるため、古くから重要な軍事拠点となっていた。旅順のある遼東半島の対岸は山東半島で、両方で首都の入り口を守ることが出来る。そのため山東半島の威海衛とともに軍事的な要塞地帯であった。

【北洋艦隊】
旅順は漢の時代から「馬石津」「獅子口」などと呼ばれていた。明の初期に、遼東半島を回復するために明軍が獅子口に平安裡に上陸したが、これを記念して「旅順」という地名になった。「旅途平安、順調到達」というところからとられた。

近代に入り、清国は洋務運動による富国強兵を目指した。その中で李鴻章は中国北部の防衛に目をつけた。李鴻章は1874年に北洋水師を作り旅順などに軍を分駐させて防衛に当たった。1880年ここを訪れた李鴻章は軍事的価値の高い旅順を要塞化することとした。軍艦などで日本を牽制して、朝鮮での優位を得るためであった。そのために砲台やドライ・ドッグを築き、「東アジア第1の軍港」と呼ばれるまでになった。

しかし、1894年7月日清戦争で北洋艦隊が敗れると、中国東北地域の制海権は日本に移った。清国軍は山東半島の威海衛に移ったため、旅順を容易に落とすことが出来た。旅順を落としたことによって船の修理が出来なくなった北洋艦隊は、戦争遂行能力を弱まらせることになり、清国の敗戦へとつながった。

【ロシアの租借】
日清戦争で中国が敗退して、三国干渉(1895)の後にロシアが大連と旅順を租借した(1898)。ロシアは南満州の利権を得た後も遼東半島への進出を見送っていたが、ドイツの膠州湾確に対抗して租借した。ロシアからすれば、遼東半島への日本の進出がウラジヴォストークに本拠を置くロシア太平洋艦隊に脅威を与えることになる。一方で、ロシアの軍艦はそれまで冬期に長崎に停泊させていたが、それが出来なくなったためにの新しい港を探す必要もあった。そこで旅順に目をつけて要塞化した。同時に商業拠点として大連の建設に着手する。

【日露戦争と関東州】
北清事変(1900)でロシアは満州に軍隊を送り、事実上占領して清国に独占的権益を認めさせた。日ロは朝鮮半島の権益をめぐって対立した。日本は日英同盟を結び(1902)、ロシアとの対立が本格化して日露戦争へと発展する(1904)。日本軍は戦争開始のとき(1904年2月)から旅順攻撃をしたが、なかなか陥とせなかった。旅順港口に船を沈めるなどしたが、うまくいかなかった。

結局1905年1月に203高地が陥落したこと、3月の奉 天会戦、5月の日本海沖会戦によって日本が勝利し、大連共々ロシアの租借地を日本側が受け継ぎ、関東州として統治された。この旅順の戦いでは、日本側で6万の死傷者、ロシア側は6万人が死亡したり捕虜になったりしたという。なお、伊藤博文を暗殺した安重根は旅順刑務所で死刑に処された

【戦後】

1945年太平洋戦争で日本が負けた後、8月22日から24日にかけてソ連軍が旅順・大連に進行した。これにより日本の武装解除が行われるとともに、旅順は「ソ連海軍の根拠地」となった。1949年の中華人民共和国の成立後、ソ連軍は引き続き旅順に駐屯したが、1955年4月に中国人民解放軍に引き継がれた。その後現在に至るまで、中国の軍事要塞地帯となっていて、外国人には東鶏冠山保塁203高地水師営会見所跡しか解放されていない。

203高地入り口 203高地より旅順港方面を見る

韓国・東北アジアの歴史    目次   HOME   次のページ