明成皇后遭難の地

景福宮の一番奥にある。もともと乾清宮の中であった。1895年ここに三浦吾楼らが乗り込み、高宗妃(閔妃)らを斬り殺し、遺体を焼いて遺灰を香遠亭のある池に捨てる事件が起きた。
 
日清戦争の直後のことで清国の勢力が撤退して、かわりに日本の力が強まっていた。一方北からはロシアが黄海への進出を図り、三国干渉などで日本を牽制していた。王妃は強まる日本の力に対抗してロシアとの関係を強めることで、日本の干渉を抑えようとした。そのような背景で起きた事件であった。
 
事件後、命の危険 を感じた高宗は夜陰に乗じて景福宮を脱走してロシア公使館に逃げ、1年近くそこで生活した。その後王妃は明成皇后(ミョンソンファンフ:명성황후)という名前を追贈されている。この建物は、乾清宮復元事業のため撤去された。

李承晩元大統領筆 建物に描かれる絵(1) 建物に描かれる絵(2)

前のページ     目次    HOME    次のページ