朝鮮通信使客館あと

厳原港から徒歩5分ほど、国分寺は朝鮮通信使を迎える客館あとである。朝鮮通信使は釜山の倭城台近くの永嘉台を出発し、対馬北部の佐須奈に到着した後、対馬藩の案内で対馬海峡側を船で南下して厳原に入った。その後、さらに海路で瀬戸内海を通り、大阪から陸路をとることになっていた。

しかし、これにはあまりにも多くの費用負担がかかるために、新井白石は通信使の待遇の簡略化を図ろうとした(1711年)。白石は朱子学派の門人で雨森芳州と同門である。朱子学を起こしたのは藤原醒窩で、醒窩は文禄慶長の役で日本に連れて来られた朝鮮の儒学者、(カンハン:강항)から儒学を学んだ。両者とも
醒窩の曾孫弟子にあたる。

1807年、47年ぶりの通信使が派遣された。徳川家斉の就任(1787)を祝賀するものであったが、すでに就任か相当経っていた。こんなに時間がかかったのも、天明の飢饉(1782-87)と、新井白石以来の方針のため朝鮮側との交渉に時間がかかったからである。

対馬に来た通信使は、国分寺で国書伝達を行うこととした。そのために国分寺に客館や門を建てた。客館は明治時代に火事で焼失したが、門は残り現在に伝えられている。なお、このときの通信使が朝鮮から日本へ来た最後の通信使となった。

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