朝鮮人街道
近江八幡市内

文禄慶長の役(1592-1598)で途絶えた日本と朝鮮の関係は、1607年の回答兼刷還使(第1回通信使)で復活した。最初のうちは、戦争で日本に連れてこられた人帰還がその目的であったが、第4回(1636)から「通信使」の名前を使った。その後1811年の第12回通信使まで続く。第12回通信使は対馬での接待だったが、それ以外は江戸まで来た。第3回から5回までの通信使は日光まで行った。

通信使は漢城(ソウル)を出発した後、釜山まで行く。釜山で風待ちをして、一気に対馬の佐須那へ。その後海路で玄界灘、瀬戸内海を渡りながら、大坂へ行く。淀川をさかのぼって京都まで船で来たあとは、朝鮮人街道によって彦根へ向かった。朝鮮人街道は中山道の脇道で、30キロほど。織田信長が安土城を建設するときに、京都と結ぶためにつくった道と言われる。また、関ヶ原の合戦に勝った徳川家康が上洛した道でもある。カーブの多い道であるが、通信使だけ通行が許された。通信使は近江八幡で昼食をとり、彦根で宿泊した。市内の本願寺八幡別院は中心史が休憩したところである。

通信使は逗留先などで主に漢詩などの書の交換を行った。中にはハングルがどういうものか尋ねた者もいる。また、行列が朝鮮式の華やかなもの見学者が多かった。その様子は現在でも様々な形で伝えられている。

元和2年(1617)第2回通信使の昼食 元和2年(1617)通信使の昼食 通信使行列の復元(近江八幡)

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