釜山倭城

釜山は文禄・慶長の役のときに真っ先に日本軍が上陸したところであった。軍は釜山を陥したのち東莱へ向かった。日本側は要地要地に日本式の城を築いた。これを韓国では倭城と呼ぶ。釜山には真っ先に城が造られたようで、釜山倭城を含めいくつかの城が知られている。釜山から北に30キロほどの西生浦倭城(加藤清正)や機張倭城(黒田長政)はよく残っているが、釜山では破壊されているものも多く、近年になってから再発見されたものもある。

釜山倭城は佐川洞の裏山で、釜山の名前のもととなった釜形の山、甑山(チュンサン)の頂上に作られた。もともとここには朝鮮側の釜山鎮城があり、それをこわして作ったと言われている。作られたのは1592年のことで毛利輝元や小早川秀秋らがいたといわれる。

戦前の地形図には小西城(小西行長の城)と書かれているが間違いである。海抜は125メートルほどであるが、急峻な山で頂上からは釜山の海越しに対馬が見える。細い谷(今国鉄が通っている)の向かい側には出城にあたる子城があり、子城台公園となっている。

現在周囲は住宅や団地に埋め尽くされているため石垣などが完全に残っているとは言えない。方々に石垣の石を利用したと思われる石積もある。しかし頂上附近は内城に入る虎口などが残されている。

海側に残る虎口 内城の城壁(虎口があったという) 対馬方面の眺め

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