斥和碑

新羅拓境碑のある公園の中にある。近くから移されてきたものである。19世紀、大院君が実権を持っていたときに全国に建てさせたものである。19世紀、日本が開国した頃から、朝鮮半島に欧米勢力が接近し始めた。明治維新の2年前の1866年、アメリカ船が平壌、フランス船が江華島を攻撃し、71年にもアメリカ船が江華島を攻撃・占領したが、朝鮮側はこれらを撃退した。

これに自信を持った大院君が「洋夷侵犯するに戦いを非とするは則ち和なり。和を主とするは売国なり」(洋夷侵犯非戦則和、主和売国)という碑を建てさせた。これが「斥和碑」である。鎖国を強めることによって自国を守ろうというものであった。

全国に建てられたが、1873年に大院君が失脚すると、朝鮮政府は開化政策をとり、1876年に日本との関係修復(朝鮮側は開国とは理解していなかった)、1882年の米英に対する開国で朝鮮の鎖国策はくずれた。さらに1882年に大院君ら保守派が起こした壬午軍乱で、日清両軍が朝鮮に出兵して清国軍が大院君を清国に連行すると、王の命令によって斥和碑は撤去された。そのため現存しているものは少ない。外に見られる場所は、釜山市立博物館、ソウル鐘閣(今はあったことを示す石碑のみ)、ソウル切頭山教会などである。

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