昌寧(창녕:チャンニョン) とは

昌寧は洛東江河口の金官伽倻の金海から車で1時間ほど。洛東江左岸ぞいに発達した沖積平野にある。大伽倻のあった高霊と金海の中間で、西側と南側を洛東江が取り巻く地である。ここにおきた弁韓の「不斯国」が発達して、非火伽倻となった。

すぐ上流で洛東江が3つに分岐するため、同じような条件の多羅国同様、各地の物流を集めて送り出すところとして独自の発展をしたが、洛東江東岸のため、新羅の影響の強い地域であった。最初のうちは今の昌寧南方の桂城洞が中心地だったようだが、その後昌寧地域に勢力の中心が移ったようである。背後には伽倻時代の城跡が残る火旺山(화왕산:ファワンサン)がせまる。

洛東江の肥沃な土地のため早くから農耕が発達した。非常に大きな支石墓なども残っている。非火伽耶からその後新羅時代の支配者の墓が校洞・松峴洞古墳群である。この国に関しては文献資料はほとんどない。

昌寧は新羅が西から進出するための交通の要地であった。5世紀後半に政治的には新羅の影響下におかれた。新羅によって占領されたのは、555年頃と考えられる。新羅真興王も直接ここに来た(561年)。そのことを示す拓境碑が残されている。その後、ここは新羅の前線基地となり大伽倻を滅ぼした(562年)。統一新羅時代、ここが交通上の要地であった関係で慶州に次ぐ仏教文化が花開き、「第二慶州」といわれるほど、新羅時代の石塔石仏が多い。

この地域は文禄慶長の役(特に慶長の役)のときに主戦場となったところで、それに反対する義兵活動も盛んであった。火旺山は郭再祐が閉じこもり抵抗しようとしたことでも知られる山である。

昌寧博物館 校洞古墳より南を見る 火旺山

大成洞古墳群     目次    HOME     校洞・松峴洞古墳群