校洞古墳群
校洞古墳群と石室

校洞(교동:キョドン)古墳群は非火伽倻の支配者クラスの古墳と考えられている。少し離れたところにある松峴洞(송현동:ソンヒョンドン)古墳群と一続きで、大小あわせて30基残っているが、もとは170基近くあったようだ。古墳は新羅式の積石木槨墳で作られた1基を除いて、伽倻式古墳である。昌寧博物館わきの古墳群の場合、最も高いところにある7号墳が5世紀後半頃で最も古く、新羅系の金銅冠など多くの遺物が出ている。そこから下に降りるほど築造年代が新しい。

伽倻式の古墳は5世紀頃から竪穴式の石槨墳が採用されるが、5世紀の終わり頃になると横口式石槨墳に変化する。1号墳の場合、まず護石を数段作り、そこに土を入れたのち石室を築き、さらに石室を中心に放射状に区割りをしてそれぞれ板築を行った。このような古墳以外に、百済の影響を受けた横穴石室墳も増え始めた。新羅式の古墳は非火伽倻滅亡後、この地に来た役人の墓と考えられている。

古墳群は5世紀前後のものと考えられているが、伽倻式土器とともに、新羅王権との関係を考える上で重要なものが多くでている。その中には新羅との関係を示す「山」字型の金銅冠もある。

校洞古墳群全景 北側を見る 博物館から、松峴洞古墳を見る

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