陜川(多羅国)
多羅国全景

陜川(합천:ハプチョン)の城山里にある。洛東江と黄江の分岐するところで、これらの川の流れを利用して発展したクニである。伽耶地域と新羅地域との結節点にあたるために、対岸の昌寧同様に、周辺のものを集めて発信するところである。昌寧は、洛東江の東岸に位置するために新羅との関係が強いが、対岸の陜川は、新羅、大伽耶、百済と時期によって影響をうける国が変わる。

ここに伽耶時代の古墳、土塁などが残るが、近くに「多羅里」があるため、日本書紀に出てくる「多羅国」であると比定される。古墳群、土塁の下には平野が広がるが、黄江の氾濫原が広く、伽耶時代には使えなかった。そのため、住民などは少し離れた地域に集落を作っていたと見られる。

多羅国については、日本書紀に一言出てくるだけで文献資料では様子がわからない。そのため、発掘資料で構成するしかない国である。ここでは5世紀はじめ頃から、甲冑、馬具、装身具などの金属遺物が突然出始める。金官伽耶の影響の強いもので、金官から人々が移住したと考えられている。というのも400年に金官が高句麗、新羅に敗れているからである。多羅国が成立したのもこの時期とされる。

この地域は5世紀中葉までは新羅の影響が強い。その後大伽耶の影響が強くなり、大伽耶系の竜鳳紋環頭大刀が出土する。ここで作られたものでなく、大伽耶から関係ある勢力にくっばられたものだが、1つの古墳から4本も出ていて、ここの勢力の強さがわかる。この大刀は埼玉県稲荷山古墳の鉄剣の系譜を知るためにも重要と言われる。一方で倭系の甲冑なども出土する。

さらに6世紀に入るのを前後して、再び新羅の影響が見られるようになる。大伽耶が新羅と婚姻同盟をしていた時期だ。その後6世紀中葉直前に百済の勢力が強くなる。理由はよくわからないが、日本書紀欽明天皇記、541年、544年に2回行われた、百済聖王(聖明王)主催の「任那復興会議」に多羅の名前が出てくる。この近くには新羅の城の大耶城がある。新羅と百済が勢力争いをしていた642年、ここを百済が陥落させた。新羅武烈王になる金春秋の娘もこのとき死亡した。百済がここを攻めたのは、新羅の都、慶州を攻めるための要衝だからある。そのような場所であるため、伽耶を維持するために、この時代にも百済がここに勢力を伸ばしてきたのであろうか。しかし、この会議の直後に多羅国は新羅に吸収されたと考えられている。


広い氾濫原 大伽耶系耳飾 新羅系馬甲冑 竜鳳紋環頭大刀

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