玉田古墳群

古墳群から南東を見る(M3号墳付近より)

玉田の陵墓クラスの古墳群で、4世紀中葉から6世紀全般まで築造された。いくつかの稜線に分かれて築造され、総数は1000基に達するとされる。高塚式古墳は稜線の西南側に27基密集している。

西から東方向に新しくなるが、この地域の特性のため墓制や遺物に様々な様式が流れ込んでいる。最も古いものは4世紀の木槨墳で稜線の東南側に分布する。5世に入ると急に金工芸品が現れる。この時期に「多羅国」が成立したようだ。5世紀半ばには木槨を築き、上部を石で覆う「多羅式」の古墳となる。主槨と副槨が作られる伽耶で多く見られる形式となる。M1号墳からは3基の殉葬墳が発見された。また、新羅の影響の強い土器が発見されている。

5世紀も終末に近づくと、M3号墳のような大規模な古墳が現れた。M3号墳は未盗掘で発見されたが、ここからは大伽耶系の馬具などの外、大伽耶系の竜鳳紋環頭大刀が4本発見されている。棺台の下に敷かれ鉄が、鉄鋌ではない。また、副槨から2頭の鹿の骨が出ているが、死後の世界で食べられるように埋葬されたのか、宗教的な意味があるのかはわからない。これらから大伽耶と密接な関係に変わったことがわかる。

この時期は大伽耶と異なる墓制であったが、6世紀に入ると大伽耶式の竪穴式石槨墓が登場する。6世紀中葉に近づくと、M6号墳のように大伽耶と新羅の文物が混ざった古墳が登場する。ちょうど大伽耶が新羅と結婚同盟を結んだときである。M10号墳は新羅で発展した横口式石室墳が登場する。

5世紀中葉以降の古墳はM11号墳だけだが、百済古墳の影響の強い横穴式石室墳と百済系の副葬物が出てくる。日本書紀の欽明2,5年に行われた「任那復興会議」の時期にあたる。しかし、この直後多羅国は滅亡し、新羅に吸収されたものと考えられる。

古墳分布図 南方を見る。林の向こうは黄江 復元されたM3号墳木槨

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