咸安(安羅伽耶)
こちらも参照のこと
咸安の盆地(2枚を合成)

咸安は北、西は洛東江の支流、南江と、それに合流する洛東江に囲まれ、南と東は700mも山に囲まれた盆地である。南江と洛東江を通じて伽耶の全域に行くことが出来る。陸路では馬山などの海岸地域に行くことも出来る。交易の便の良いところである。

すでに紀元前3世紀頃からの遺跡がみられ、それが発達した。弁韓時代には「安邪国」として出てくる。3世紀末から4世紀初めにかけて「浦上八国(固城を中心としたクニ)」の戦争に勝利して、金官伽耶とともに優勢な勢力となった。安羅伽耶は百済と緊密な関係を持つようになった。

400年、百済、倭と結んで高句麗新羅連合軍と戦ったが、高句麗、新羅連合軍に敗れた。これによって金冠伽耶とともに大打撃をうけた。安羅が再び力を強めたのは6世紀に入ってのことで、このころ「王」の称号が使われ、ある程度の統治体制もできていた。このころ新羅が伽耶に対して圧迫を強めていた。540年ころまでに喙己呑、卓淳、南加羅などが新羅に編入され、大伽耶が伽耶全体の盟主の地位を失いはじめたため、新たに伽耶をまとめて復興させる立場となった。古墳の発掘などを通じてみると、全盛期には現在の馬山や鎮州地域まで影響領域が広がった。

また、倭王権の使臣も安羅伽耶に派遣されて留まっていた。同時に百済も安羅に駐屯した(531)。このような力関係の中で「高堂会議」や「任那復興会議」(541,544)を通じて積極的な役割をするようになった。

このように倭との関係の強い地域であるが、日本の古墳からも安羅伽耶系の遺物が多く出る。しかし大和ではなく、主に地方との結びつきが強かった。須恵器の制作技術も、畿内では金官伽耶系であるのに対して、地方から安良伽耶系のものがでてくるのだ。

しかし、新羅の勢力に勝つことは出来ず、561年頃、大伽耶とともに新羅に服属したとみられる。

阿羅土器(国立中央博物館) 火炎型の穴が特徴(咸安博物館) 鉄鋌 (安羅・金官)

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