辛科神社
神社鳥居

群馬県吉井町の辛科神社は大宝年間に創建されたと伝えられる神社である。この 地域に711年に多胡郡ができるが、その直前である。辛科は韓級と書いた。711年に多胡郡ができたときに、甘楽郡から分割されて多胡郡韓級郷となり、神 社は多胡郡の総鎮守 になった。

祭神は速須佐之男命と五十猛命(速須佐之男命の子供)であるが、明治以前は速須佐之男命と天照大神と稲田姫命(速須佐之男命の妻神)であった。天照大神と その弟神・妻神を同列にすることに困難があったため、天照大神と稲田姫を外したが、速須佐之男命は残ったということだ。速須佐之男命と五十猛命は日本書紀 の一書に、高天原から新羅のソシモリに降りた後、日本に来たことになっている神で、渡来系と伝えられる神といわれる。

もともと、この地域は文化的背景のある地域で、4世紀には古墳が作られはじめ、吉井町全体で1000基近く残っていた。また、多胡郡ができる以前から屯倉 があったり、法隆寺領があったところでもある。そのような文化的基盤のあるところに渡来人が入ってきた。甘楽郡の「甘」が「韓」と通ずるという指摘もある し、韓級も韓(カラ)というところから、朝鮮半島南部、加羅 からの移住であったかもしれないが、いろいろな勢力がいたようである。それらの勢力も直接大陸から来たと言うよりは、かなり土着化が進んでいたようで、渡 来人の直接の遺物は出てこない。

この地域と渡来人とのつながりを示す史料は多く残されており、新羅系 の「子」一族の193人に「吉井連」の姓が与えられた(756年)と続日本紀 に出ている。続日本紀にはただ「上野国」と書いてあるだけだが、多胡郡の事と 考えられている。境内には戦国時代の館あとがあり、当時の空堀が一部残っている。

拝殿 神社横の記念碑(明治18年) 神社裏から妙義、浅間山方向を眺める

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