多胡碑

711年に上野国の片岡郡、緑野郡、甘楽郡を分割して多胡郡が作られた。 300戸、6郷(1郷は50戸)の規模であった。その ことを記念して作った碑である。辛科神社があった り、甘楽郡という地名があるように、「韓」につながる地名が残されていて、早くから渡来人がこの地域にいたと考えられる。

6世紀前後には朝鮮半島の焼き物 である須恵器の生産技術が伝わり、この地に登り窯が作られた。奈良時代には上野(こうづけ)の瓦は殆どこの地域で焼かれることになる。焼き物だけでなく、 織り布の技術 も早くから伝えられていた(織裳郷=折茂という地名がある)。その上文字を使う文化など文化的に発達した地域であった。渡来人の影響とされる。

郡そのものは渡来人だけで作られたと言うよりも、大和政権や土着勢力との政治的葛藤の中でできあがった郡であることがはっきりしてき た。そこを「羊」に給ったという。「羊」が何を指すかは諸説ある。この碑のある場所は郡衙の跡と考えられているが、まだ発掘は行われていない。碑身は砂岩 で作られているが、上に笠石が載っていて雨水による直接の浸食を防ぐことができたために、文字が残ったとされる。碑石を作る文化は当時の日本に は希薄であったが、朝鮮半島で金石文は残されている。その影響であろうとされる。

文字の使い方などにもそれが指摘され、新羅の影響も指摘されている。また、片岡郡の「岡」は「置」の「直」の部分が「止」になる異体字で新羅や高句麗でよ く使われていた。中国集安に残さ れている好 太王碑の「岡上」の「岡」がこの異体字である。碑の高さは127センチである。
 
辛 科神社    HOME     目次    保渡田古墳群