三陵(サムヌン)、独陵(トンヌン)
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三陵 |
南山三陵渓(삼능계:サムヌンゲ)は磨崖仏などの仏蹟の多いところであるが、その谷の名前の元となった三陵とは谷の入り口に三つ並んだ古墳のことである。それぞれ神徳(신덕:シントク)、景明(경명:キョンミョン)、阿達羅(아달라:アダルラ)の王の陵とされる。神徳、景明は10世紀初期の王で、阿達羅は2世紀中頃の王とされる。
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独陵 |
独陵(독능:トンヌン)は三陵の南、笠谷(삿갓골:サッカコル)付近にある。こちらは新羅の事実上最後の王、景哀王(경애왕:キョンエワン)の陵といわれる。新羅は神徳−景明−景哀王で終わる。このころの新羅はもはや半島全体を統治する力はなく、慶州のまわりだけをかろうじて支配していたにすぎなかった。
朝鮮半島はすでに後三国時代に入っていて、全州(전주:チョンジュ)を拠点に甄萱(견훤:キョンフォン)が支配し後百済を名乗り、北は弓裔(궁예:クンイェ)が鉄原(철원:チョロン)を拠点に覇権を争っていた。そんな中、924年、景哀王が>鮑石亭(포석정:ポソクチョン)で宴会をしていたとき、甄萱の軍隊の襲撃に遭い、新羅は滅びてしまった。その悲哀を表すかのように1つぽつんと墓があると言う。
ただし、陵の名前と実際に葬られている人が同じかは別問題である。4つの墓はすべて新羅後期の形式の横穴式石室墳である。
この4人の王はすべて朴氏の出身である。南山(남산:ナムサン)の西側には逸聖(일성:イルソン 134-154)王陵、祇摩(기마:キ マ 112-134)王陵、五陵(오능:オーヌン)があるが、いずれも朴氏である。慶州朴氏の始祖、朴赫居世(박혁거세:パクヒョッコセ)が同じく南山麓の蘿井出身で、近くの昌林寺(창림사:チャンニムサ)付近に宮を築いたという伝説から、実際のこととは別にして、朴氏に関連が深い地域と考えられていることと関係がある。