王宮里(왕궁리:ワングンニ)遺跡
百済型五層石塔(2000年)

王宮里遺跡は百済の城跡に作られた寺跡である。長いこと地名から「馬韓」の都、百済「武王の王宮」跡、高麗王族安勝の「報徳国」の地、後百済「甄萱の都」と伝えられてきたが、最近の発掘で百済の王宮跡に遡ることが確認された。百済の都の中で、王宮跡が確定できるのは、2007年末現在、王宮里遺跡だけである。この百済武王の時代(600-641)に作られた別宮の上に、統一新羅時代に寺が建てられ、高麗時代まで続いた。現在寺跡には五層石塔が一基残っている。

五層石塔は高麗時代に建てられた百済型の石塔である。扶余、定林寺の石塔を模したもので、新羅の塔と異なり、基壇が一段であり、屋根が薄く広い。このような石塔は、新羅時代には作ることが出来なかったが、新羅末期の勢力衰退期から高麗時代に入ると(羅末麗初)、この地域で再び作られるようになった。羅末麗初には、百済式に限らず、それまでの新羅型と異なる石塔が各地で流行した。

1965年に解体復元され、金製金剛経板、金製舎利函などが発見された。こちらは百済時代のもので、塔の製造年代と合わない。実は近くの帝釈寺のもので、そこが火事で焼けた後、移されたものである。火事で焼けた年代(693年)と石塔の作られた時期は合わないが、五層石塔の下からは木塔が建てられていたと見られる遺構が発見されている。

塔の周囲からは「王宮寺」「官宮寺」「大官官寺」「大官宮寺」などと彫られた統一新羅時代の瓦が大量に発見されている。百済時代の施設を完全に整地した後に寺が建てられていて、新羅に占領された早い時期に寺に作り替えられたことが分かっている。その木塔に保管していたものが、石塔を作るときに移されたということだ。遺物類は展示室で見ることが出来る

百済時代の遺構としては、城を長方形に囲む城壁(南北490m、東西340m)、傾斜地を整地するために築かれた東西に長い石築、瓦積み基壇、庭園、轍の残った道路などが発見されている。城の北西には大きな排水路があり、その近くに大型トイレ跡や、工房の廃棄跡があり、場内に大規模な生産施設があった。韓国の寺は、自分の寺に必要な物を、寺の中に工房を作って調達していた。その跡である。

王宮里遺跡から2qほど、五金山(오금산:オグムサン)の山上には、益山土城がある。地名から「オグム山城」とか、「報徳城」ともいう。「報徳城」とは 新羅が三国統一したときに、高句麗王族の安勝(안승:アンスン)を報徳国王に任じてここに住まわせたことにちなむ。発掘調査によって百済武王の時代に始めて作られたことがわかった。

五層石塔(2007年) 大型建物跡 南門跡

前のページ    目次    HOME   次のページ