帝釈寺址
木塔心礎石 木塔基壇石(上面) 出土瓦

帝釈寺(제석사:チェーソクサ)址は王宮里遺跡から2キロほど東にある。一段高いところに、木塔の心礎石が割れた状態で転がっているだけであったが、1993年に行われた発掘調査で「帝釈寺」と彫られた瓦が発見されて、寺の名前が確定した。2003年に寺北西の廃棄場の調査が行われ、さらに2007年から2009年までの予定で発掘が行われている。

帝釈寺の記録は、京都青蓮院に残る「観世音応験記」に出てくる。元は南斉の陸昊がまとめたものであるが、今は京都にしか残っていない。「百済の武広王が、都を枳慕密の地に遷し、新たに精舎を営んだ。貞観3年歳次己亥(639)冬11月に激しい雷雨があり、遂に帝釈精舎を焼いた」。枳慕密は益山に比定され、この文章だけが益山に都したことを著した貴重なものである。この火災で、仏堂、七級浮屠、廊房が全て焼けたが、仏舎利と経函だけは焼けなかったため、王は寺を造って新たに納めたと記録にある。この寺が王宮寺だろうとされる。

実際、寺跡の北側には、この寺の瓦などの廃棄場が発見されていて、その状態から寺が焼けたことが分かる。なお、ここから発見された瓦の中で、軒平瓦がついているものがある。ここに忍冬紋や鬼など百済時代によく使われた紋が浮き彫りにされている。しかし、軒平瓦を作る技法は、統一新羅時代になってからとされている。もしこれが百済時代の物とすれば、初めての発見である。

塔の心礎石は地上にある。扶余、益山はじめ塔の心礎石は土中にあるが、7世紀に入り地上に作られる物も出てきたと考えられる。同じ頃、飛鳥の百済大寺と考えられる寺の塔の心礎石も地上に作られているのだ。見学時点で、講堂部分の発掘が行われていなかったが、今後の発掘調査でさらに新しい発見があるかもしれない。

金堂址から木塔址を見る 発掘風景 帝釈寺(黄色)と帝釈寺廃棄場(後ろ)

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